515事件と226事件の違いは?

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515事件と226事件にはどんな違いがあるんでしょうか?

515事件では犬養毅が殺害され、226事件では陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行し高橋是清が殺害されましたが違いは?

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515事件と226事件の違いは?

515事件と226事件の違いを簡単にまとめると、

5・15事件は海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺した事件。

2・26事件は陸軍の青年将校ら1400人あまりが東京の中心を占拠して大臣を暗殺した事件

です。

515事件が起こったのは1932年(昭和7年)5月15日。時の首相、犬養毅が海軍士官と陸軍士官学校生徒で形成された襲撃部隊に暗殺されました。

5・15事件(昭和7年)は海軍の若い将校たちが、ワシントン及びロンドンでの軍縮会議(軍艦の規模など規制)で日本側が軍縮幅を欧米側に対して対等でないことに不満を募らせ、政府の妥協外交に腰抜けだなどと怒り、また、不景気など閉塞感が漂っているのは腐りきった政治家や財閥の者どものせいだと、彼らの粛清を目的としたクーデーターを起こしたもの。

226事件が起こったのは1936年(昭和11年)2月26日。内閣の重臣たちが襲撃され、国家の中枢機関である国会や警視庁などを一部陸軍青年将校が兵数千名を引き連れて占拠しました。

2・26事件(昭和11年)は先の海軍将校たちの軍事クーデーターに触発された陸軍の若手将校たちが、矢張り現行の日本政府のあり方に不満を募らせ、政治の腐敗は元老・重臣・軍閥・官僚などのせいだと、義憤をもって軍事クーデーターを起こしたもの。そして彼らはストイックで現行の政治は天皇の意思に沿わないものだの思考が強く、所謂皇道派に属するものたちで、陸軍内部での対立も背景にあった。それが元老・重臣などと一緒に軍閥という言葉が出てくる、その対立していた派が統制派であった。

この対立はやがてクーデーターの失敗(鎮圧され)で、皇道派は力をなくしていった次第で、統制派・東条英機らが台頭してくることになったのです。

老体の高橋是清は早起きで朝風呂を入る習慣があったのですが、まさにその時に殺されました。射殺した陸軍青年将校らは裸の高橋に自分の来ていたコートをかけました。「高橋、、、これ着よ。」(笑)まぁこの逸話は嘘だという説もあります

515事件と226事件名前は似ていますが、事件自体には繋がりはありません。

敢えてざっくり箇条書きにするとしたら・・・

<共通点>

・軍人が起こした事件(515は海軍士官が中心。226は陸軍将校)
・不況という時代背景
・不況なのは政治のせいだ。と、不満を持っていた

<相違点>

・515は士官と士官学校生徒(現在の自衛隊でいうところの幹部と幹部候補生)のみで起こした事件であるが、226は兵を連れ出した。(軍隊を引率した)

・515は首相1人を狙ったのに対し、226は国家の重臣数名を襲撃した

515に関しては軍事予算の縮小に不満を持ったのが最大の事件に至る要因で、単純に総理大臣となる人物に恨みを持っていた。と言う解釈が一般的。

226では不況で貧困の極みを味わっている農村部の人々がいるというのに、一部特権階級やその取り巻きの人間たちが贅の極みを尽くし、天皇陛下にウソの世論を伝えている。こいつらを始末して天皇陛下に実情を知ってもらい、天皇中心の世の中を作るんだ!という純粋な気持ちから事件が起きた。と、言われています。

最大の相違点は事件の「その後」です。

515では死刑の判決を受けたものは誰1人いなく、嘆願署名運動で刑期が軽くなりました。

しかし226事件は非公開一審のみという厳しい条件で裁かれ死刑判決が下り、事件を起こした中心人物は全員、事件から5ヵ月後の7月に処刑されています。何も知らず連れ出された兵(部下)たちも、その後部隊が満州の最前線へと送られたり、反乱軍に関わったという汚名を着せられ、軍隊生活では長いこと冷遇を受けた人物もいるようです。

兵を連れ出したこと、国家の重臣を次々と襲撃したことで天皇陛下の逆鱗にふれたことも重刑につながったと言われていますし、また、昭和天皇は海軍贔屓だったために515では死刑判決が下らなかった。などという見解もあります。

とにかく様々な解釈が存在する深い事件です。

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