徳川吉宗が親戚(大叔母)にあたる竹姫(綱吉の養女)と実は恋仲だった?
側近が幕府の威信に係わるからと猛反対、竹姫を島津藩に嫁入りさせたのは歴史的事実なんでしょうか?
徳川吉宗と竹姫(綱吉の養女)の関係は?なぜ正室・側室にならなかった?
吉宗が竹姫と結婚したいという意思があったのかどうか、歴史的に確かな出来事としては伝わっていません。
竹姫は、徳川綱吉の養女であり、後に島津家に嫁ぎました。竹姫は歴史的に島津家に嫁ぎ、その後、様々な出来事がありました。
吉宗が竹姫との結婚を望んだという話もありますが、その際に大きな反対があったとされています。
時の幕閣が、血縁関係がない竹姫との結婚を避けるべきと考えたため、この結婚は実現しませんでした。
竹姫は島津家に嫁ぎ、縁談がいくつかありましたが、何度かの婚約者の死去や縁談が難航したといわれています。吉宗と竹姫が男女関係にあったという噂も広まりましたが、その真偽は確かめられていません。
竹姫の人生には様々な出来事があり、最終的には島津継豊の正室となりました。彼女は継豊との間に子供をもうけましたが、晩年は別居し、徳川家と島津氏の縁を築く役割を果たしました。
吉宗は竹姫と結婚したいという願望があったかもしれませんが、歴史的には彼女が島津家に嫁ぐことが事実として残っています。その後、吉宗は他の側室を持っていましたが、正室は亡くなっており、竹姫との結婚には大きな反対があり、最終的には島津家への嫁ぎが実現しました。
竹姫(綱吉の養女)とは?
5代将軍徳川綱吉の側室であった大典侍局(寿光院/権大納言清閑寺熈定の娘)は子に恵まれなかったため、姪の竹姫を自身の養女とすることを望んだ。
綱吉は唯一成人した子どもの鶴姫(紀州徳川綱教正室)が亡くなったばかりであったこともあって異例ながらこれを赦し、竹姫は大典侍局と綱吉の養女として江戸城で養育された。
最初会津藩主松平正容の嫡子久千代と婚約するもすぐに死去し、さらに有栖川宮正仁親王と婚約したが、1716年に輿入れ直前に親王は亡くなってしまった。
まもなく8代将軍徳川吉宗の代となると、今度は正室を亡くしていた吉宗が後妻にしようとした。
しかし、系図上大叔母である竹姫との縁組は儒教的にありえない所業であったために大奥を差配する6代家宣の正室天英院らが大反対して縁談は中止となった。
二度の婚約者の死と、すでに竹姫と吉宗は男女関係だったという噂もあり、以降竹姫の縁談は難航を極めたという。
1629年になって、近衛家経由で薩摩島津氏に縁談が持ち込まれ、島津氏は渋々これを受けれたので、竹姫は薩摩藩主島津継豊の正室となった。
すでに男子のあった継豊はその男子(宗信)が島津を継ぐのを承諾させた上での結婚であった上に、この婚姻前後に様々な利権や特権を得た。
竹姫は継豊との間に菊姫(黒田重政正室)を儲けたが、晩年は夫が薩摩に隠居したのに対し、江戸に残って別居したという。
竹姫は徳川家(幕府)と島津氏の橋渡しに尽力し、宗信と尾張徳川家の縁談(双方が若死したため実現せず)をまとめたり、義理の孫に当たる島津重豪の養育にかかわり、重豪と一橋徳川家の姫との縁談を実現させたりした。
竹姫に始まる徳川家と島津氏の繋がりは、重豪の娘茂姫と11代将軍徳川家斉(婚約当初は一橋家世子)との縁組実現や、13代将軍徳川家定と天璋院篤姫との縁組実現に繋がっていったとされる。
徳川吉宗と鶴姫(徳川綱吉の長女)は?
徳川吉宗をモチーフにしている「暴れん坊将軍」では徳川綱吉の長女・鶴姫がたびたび登場します。
鶴姫は、吉宗にとっては兄嫁にあたる女性で吉宗の長兄綱教の正室として降嫁して、綱教より先に亡くなりました。
吉宗が将軍職について江戸城に入った時、五代将軍綱吉の養女竹姫が未婚のまま城内に住んでました。
吉宗は竹姫を正室に所望しましたが、六代将軍家宣の正室天英院から「人の道に外れる」と諌められます。
吉宗は七代将軍家継の嗣子として将軍職に就きましたから、六代将軍家宣は祖父にあたり、五代将軍綱吉は曾祖父にあたります。
竹姫は綱吉の娘なので、家宣とは兄弟になり、吉宗からは大叔母にあたります。
将軍ともあろう者が、大叔母(祖父の妹)と同衾するのは人道にもとる行為ですから、天英院は断固として反対。
吉宗は仕方なく、竹姫を薩摩藩島津継豊の継室(後妻)として嫁がせました。
徳川吉宗の正室・側室は?
徳川吉宗には史実では、正室1人、側室が4人いたことになっています。
御簾中(正室)
眞宮、理子、伏見兵部卿貞致親王姫宮
側室
深徳院殿 於須摩方
惇信公(家重)御母堂
紀藩、大久保八郎五郎忠直女
側室
本徳院殿 於古牟
宗武卿母堂
紀藩大番組頭、竹本茂兵衛正長女
側室
深心院殿 於梅(於久)
源三君、宗尹卿母堂
京都處士、谷口長右衛門正次女、新十郎正乗姉
側室
覚樹院殿 於久免
芳姫君母堂
紀藩、稲葉彦五郎(福蔵)定清女
吉宗は紀伊国和歌山藩主に就任した翌年の宝永三年(1706)伏見宮貞致(ふしみのみやさだゆき)親王の娘、真の宮理子(さなのみやまさこ)を迎えて正室としましたが、子供がないまま死去し、その頃、側室に大久保氏(深徳院)がいて、後の9代将軍・家重(長福)を産みましたが、この方も亡くなられてしまいました。家臣たちが吉宗に新たな側室を迎える事を勧めたところ、「長福を養育する事もあるので、その母に縁のある者を見つけてくるように」と申し渡しました。ところがそのような女性が見つかったものの、大変な醜女(ブス)で家臣たちが困惑して、どうしましょうか?と吉宗に相談を持ちかけたところ「女性は貞節で焼きもちやきでないのが一番だ。顔などどうでもよい」と言ったので、その女性を迎える事にしました。これが竹本氏(本徳院、後の田安宗武の母)です。この他にも和歌山藩主時代には数名の女性が吉宗の側近にいましたが、吉宗は竹本氏以外は全員、和歌山に残して江戸城に乗り込みました。