1972年に起きた「日本航空351便ハイジャック事件」について。
三田明さん・江利チエミさんが乗客として搭乗していた飛行機がハイジャックされる事件がありましたが犯人の現在は?中岡達治(ポール中岡)とは?
日本航空351便ハイジャック事件の犯人は?
1972年11月6日、羽田空港発福岡空港行きのボーイング727型機、通称「日本航空351便」が、覆面をした男によってハイジャックされました。この男性はキューバへの亡命を要求し、機内にいた著名人や乗客を人質に取りました。
当時、事件の対策本部の一員であった佐々淳行によると、犯人は飛行中に使用済みの小額紙幣で100万ドル、パラシュート、手錠、シャベルを要求しましたが、これらの要求は警察を混乱させることになりました。
事件は一時的に膠着状態に陥りましたが、犯人は逃亡用の機材としてダグラス DC-8を用意させ、乗客を解放した後、自らがDC-8に移動しようとしたところで警察に逮捕されました。
犯人の名前は中岡達治(ポール中岡)とされています。
中岡達治(ポール中岡)|日本航空351便ハイジャック事件の犯人の現在は?
日本航空351便ハイジャック事件では幸いにも、事件は無事解決し、乗客たちは無事に解放されました。
ハイジャック犯である中岡達治(ポール中岡)は、アメリカに移住し、実業家となった人物でした。
彼は日本プロレスの遠征や映画製作にも関わり、日本との繋がりが深かったことから、事件の背景には政治的な要素も取り沙汰されましたが、取調べの結果、彼の政治に対する無関与が判明しました。
日本航空351便ハイジャック事件|1970年は「よど号」事件
日本航空351便は、機体は違うものの1970年(昭和45年)3月31日にもハイジャックされています。
日本航空351便(通称:「よど号)が連合赤軍の前身団体である「共産主義者同盟赤軍派」のメンバー9人によってハイジャックされた事件で、世界同時革命という活動理念を掲げていた赤軍派は、海外での拠点確保を目的として、この事件を起こしました。
3月31日午後、羽田発福岡行きのよど号に乗っていた赤軍派メンバーは、離陸後、富士山上空で日本刀や拳銃、爆弾などの武器を用いて機体を乗っ取りました。
当時はまだ手荷物検査が厳格ではなく、日本ではハイジャック事件が発生したことがなかったため、航空安全にとって大きな衝撃を与えました。
犯人グループは北朝鮮への亡命を要求し、進路を変更して北朝鮮へ向かいました。
燃料不足のため福岡空港に緊急着陸した際、機長による説得により女性や子どもなど23人の人質が解放されました。
その後、北朝鮮への飛行中に韓国の金浦国際空港に偽装着陸を試みましたが、犯人グループに見破られて失敗しました。
韓国当局との交渉も難航し、3日間膠着状態が続きました。
4月3日、日本政府は山村新治郎運輸政務次官を人質と交換条件に人質の解放に応じ、犯人グループは北朝鮮に亡命しました。
その後、人質は全員無事に帰国しましたが、犯人グループはその後、日本人拉致事件に関与したとされる者や望郷の念から帰国して逮捕される者が出るなど、目的であった世界同時革命とは程遠い末路を辿りました。
まとめ:日本航空351便ハイジャック事件の犯人は中岡達治(ポール中岡)?現在は?
日本航空351便ハイジャック事件とは?
1972年11月6日、羽田空港発福岡空港行き日本航空351便ボーイング727型機が、覆面をした男によってハイジャックされた事件です
11月6日午前11時40分頃、羽田空港を出発した351便は、飛行中に覆面をした男によってハイジャックされました。男は拳銃と爆弾を持っていると脅迫し、キューバへの亡命を要求しました。
当時の機長は、短距離機であるボーイング727でキューバまで飛行することは不可能であると拒否し、同機は羽田空港へ引き返しました。
午後3時30分頃、351便は羽田空港着陸。乗客として搭乗していた江利チエミさんや三田明さんなどの著名人を含む106人が人質となりました。
午後4時30分頃、犯人は逃亡用の機材としてダグラスDC-8型機を用意させ、乗客を解放した後、自らがDC-8型機に移乗しようとしたところを潜伏していた警察官に逮捕されました。
犯人は、在米日本人の中岡達治(当時47歳)という人物でした。中岡は大学中退後にアメリカへ渡り、実業家として成功していました。
中岡は犯行時、100万ドル、パラシュート、手錠、シャベルなどを要求し、警察の対策本部を混乱させました。
しかし、最終的には逮捕され、キューバへの亡命は失敗に終わりました。