日本ハム背番号|なぜ100?永久欠番で大社義規?

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プロ野球・日本ハムの背番号がなぜ100?

北海道日本ハムファイターズの全選手が「100」を着用していますが理由は?

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日本ハム背番号|なぜ100?永久欠番で大社義規?

北海道日本ハムファイターズは、2024年7月2日から17日までの本拠地9試合で、球団創設50周年を記念した限定ユニフォームを着用します。このユニフォームには、歴代の4つのユニフォームの文字を2つずつ使用した「FIGH」「TERS」と書かれているのが特徴です。しかし、注目すべきは背番号で、全選手が「100」を着用するということです。

背番号「100」は、日本ハムファイターズの初代オーナーである大社義規氏が着用していた番号です。大社義規氏は、1973年に日拓ホームフライヤーズを買収し、日本ハムファイターズとしてプロ野球界参入を果たしました。その後、チームをパ・リーグ優勝に導き、球団の礎を築いた人物として知られています。2005年に90歳で亡くなった後、その功績を称えて背番号「100」は永久欠番に指定されました

日本ハム背番号100は限定ユニフォーム

今回の限定ユニフォームは、50周年の節目に大社義規氏への敬意を表し、これまでの歩みを振り返るという思いが込められています。全選手が「100」を着用することで、チーム一丸となって戦っていくという決意も感じられます。

このユニフォームは、7月12日の福岡ソフトバンクホークス戦と、15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で来場者全員に無料で配布されます。ファンの方々もぜひこの特別なユニフォームを着用して、ファイターズを応援してください!

日本ハム背番号100|永久欠番で大社義規とは?

大社義規氏は、1981年に日本ハムファイターズがパ・リーグ初優勝を成し遂げた際の監督として、チームを指揮していました。その際、背番号「100」を着用していました。

永久欠番は、原則として故人に対してのみ制定されますが、大社義規氏は存命中に永久欠番に指定された数少ない人物の一人です。

背番号「100」は、日本ハムファイターズだけでなく、日本のプロ野球界全体においても非常に特別な番号とされています。

大社義規(日本ハム永久欠番100背番号)経歴

大社義規氏は、1915年2月1日生まれ、2005年4月27日に亡くなった日本の実業家です。 日本ハムの創業者であり、元社長を務めました。 野球好きとしても知られ、球界発展に貢献したことから、2009年に野球殿堂入りを果たしました。

大社氏は1942年、徳島市に日本ハムの前身となる「徳島食肉加工工場」を設立し、食肉加工のトップメーカーに育て上げました。 1973年には、知人の勧めにより日拓ホームフライヤーズを買収し、「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参入、オーナーに就任しました。 球団経営は、少年ファンクラブの充実、沖縄キャンプの開拓、育成総合施設「鎌ヶ谷ファイターズタウン」建設など、積極的なものでした。 また、球団経営においては、「お金は出しても、口は出さない」タイプで、現場に任せることを重要視していました。

1981年には、大沢啓二監督のもと、球団創設以来初となるパ・リーグ優勝を果たしました。 大社氏は、この時着用していた背番号「100」のユニフォームと共に、胴上げされました。 この背番号「100」は、2009年に球団初の永久欠番に制定されています。

2005年、大社氏は90歳でその生涯を閉じましたが、2006年に日本ハムが44年ぶりの日本一を達成した際には、養子の啓二オーナーが遺影を持ち、選手たちによって胴上げされました。 これは、大社氏がいかに球団から愛されていたかを物語っています。

永久欠番|日本ハム背番号100以外は?

日本のプロ野球における永久欠番は、球団の歴史において特別な功績を残した選手や関係者に対して、その背番号を永久に欠番とすることで功績を称える制度です。

■読売ジャイアンツ
1 王貞治:通算868本塁打の世界記録を持つ「世界の王」。監督としても巨人、ダイエー・ソフトバンクを率いてセ・パ両リーグで優勝。
3 長嶋茂雄:ON砲として巨人黄金期を支えた「ミスタージャイアンツ」。監督としてもチームを牽引。
4 黒沢俊夫:1947年、シーズン中に腸チフスで急逝。球団は死を悼み、日本初の永久欠番に制定。
14 沢村栄治:日本プロ野球黎明期を支えた名投手。戦死後、その功績を称え「沢村賞」が制定された。
16 川上哲治:史上初の2000本安打達成者。「打撃の神様」として活躍し、監督としてもV9を達成。
34 金田正一:プロ野球唯一の400勝投手。国鉄、巨人を通して活躍し、数々のタイトルを獲得。

■阪神タイガース
10 藤村富美男:球団創設メンバーであり、「初代ミスタータイガース」として活躍。阪神で10番を背負ったのは藤村のみ。
11 村山実:闘志溢れるピッチングで「2代目Mr.タイガース」と呼ばれた。戦後唯一の防御率0点台を記録。
23 吉田義男:華麗な守備で「牛若丸」の愛称で親しまれた。引退後も監督としてチームを率いる。

■中日ドラゴンズ
10 服部受弘:主将としてチームを牽引。捕手ながら投手としても活躍した。
15 西沢道夫:初代「ミスタードラゴンズ」。投手として活躍後、野手に転向し首位打者、本塁打王、打点王のタイトルを獲得。

■広島東洋カープ
3 衣笠祥雄:2215試合連続出場を記録した「鉄人」。首位打者、盗塁王、MVPなど輝かしい成績を残す。
8 山本浩二:4番打者として「ミスター赤ヘル」と呼ばれ、チームを牽引。引退後も監督としてチームを率いた。
15 黒田博樹:広島、メジャーリーグで活躍した名投手。チームに25年ぶりのリーグ優勝をもたらした。

■埼玉西武ライオンズ
24 稲尾和久:シーズン42勝、通算276勝を記録した「鉄腕」。数々のタイトルを獲得し、チームを優勝に導いた。

■北海道日本ハムファイターズ
100 大社義規:球団創設者、初代オーナー。球団創設以来初のリーグ優勝時に着用していた背番号。

■東北楽天ゴールデンイーグルス
10 ファンナンバー:チーム創設時、「10人目の選手」としてファンに敬意を表し制定。
77 星野仙一:「闘将」として中日、阪神、楽天で監督として辣腕を振るい、チームを優勝に導いた。

■過去に永久欠番とされていたケース
大阪近鉄バファローズ:鈴木啓示(背番号1)が永久欠番に制定されていたが、オリックスとの球団合併に伴い失効。

まとめ:日本ハム背番号|なぜ100?永久欠番で大社義規?

北海道日本ハムファイターズの背番号100は、初代オーナーである大社義規氏の背番号で、球団唯一の永久欠番となっています。

■永久欠番とは
永久欠番とは、功績のあった選手や関係者に対して、その功績を称えるために球団が特定の背番号を永久に封印することです。

MLBではルー・ゲーリッグ選手がMLB初の永久欠番となり、その後多くの球団で導入されました。NPBでも読売ジャイアンツの黒沢俊夫選手が1947年に初の永久欠番となりました。

■大社義規氏と背番号100
大社義規氏は1942年に徳島で食肉加工工場を設立し、1963年に日本ハム株式会社に商号を変更しました。1973年には日拓ホームフライヤーズを買収し、日本ハムファイターズとしてプロ野球界に参入しました。

大社義規氏はチーム創設からオーナーを務め、1981年にはパ・リーグ優勝に導きました。2005年に90歳で亡くなりましたが、その功績を称えるために、2009年に背番号100が永久欠番に制定されました。

■50周年記念ユニフォーム
2024年に球団創設50周年を迎えた日本ハムファイターズは、7月のホーム9試合で50周年記念ユニフォームを着用しました。このユニフォームは白を基調としたピンストライプで、胸の「FIGHTERS」のロゴは歴代のユニフォーム4種類の書体を2文字ずつ組み合わせたユニークなデザインです。

背番号は全選手が「100」を着用しました。これは大社義規氏への敬意を表すためだけでなく、50年の歴史を背負って戦うという決意の表れでもあります。

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