鈴鹿久美子さんは「謝罪会見のプロ」としてフジテレビの「とくダネ!」などにも出演していますが、本業は選挙のコンサルティング。
15年以上にもわたる過酷な議員秘書経験から、選挙当選確率90%以上というずば抜けた実績を持つ鈴鹿久美子さんの気になるプロフィールをまとめています。
鈴鹿久美子wikiプロフィール
名前:鈴鹿久美子(すずき くみこ)
生年月日: 1960年ごろ
年齢 (2018年現在)
最終学歴:慶應義塾大学
職業:株式会社インスタイル 代表取締役
鈴鹿久美子さんは詳しい出身地や年齢(生年月日)を明らかにしていません。
小学生時代は体育の徒競走ではいつも一番という活発な半面、内気で泣き虫な性格だったようですが、
中学では女子バレーボール部に所属してキャプテンも務めるようになります。
高校進学に当たっては親の考え方が古くて鈴鹿久美子さんが本家の初孫でしかも二人姉妹の長女だったことから、
「女は高学歴であってはならない」と「跡継ぎ」の筆頭として期待されお見合い結婚の為に公立高校に通わされることに。
高校時代はあまり良い思い出はなかったらしく、大学進学も諦め地元の銀行に内定が決まっていたそうですが、
入社前の健康診断で引っ掛かり内定取り消しとなります。(後で間違い判明)
何もしないよりましと、親はしぶしぶ短大に行くことを了承したそうですが、
ぢ学で社会には片隅で泣かされている弱者が沢山いることを知り、この人たちを助けてあげたいと弁護士になる決意します。
しかし司法試験は3回も受験して3回とも不合格。この時の年齢がすでに37歳頃で、勉強と受験を続けるには何はともあれ資金が必要だったことから、
最初はお金を稼ぐことを目的に選挙の手伝いをするようになり、後に政治の世界にどっぷりとはまるきっかけとなりました。
鈴鹿久美子の経歴
国会議員政策秘書として6人の国会議員の秘書や選挙実務を15年間も経験していますが、決して順風満帆だったとは言えません。
怒鳴られるのはあたり前で、失敗の連続で十二指腸潰瘍を2度も患ったほど。
議員会館のトイレで血を吐いたときには自分の心配よりも「議員にバレたらクビになるかも」という思いの方が先立って、
血で汚れた口を慌て手で拭って平気な顔で事務所に戻るという壮絶な働きぶりだったそうです。
こうした経験を糧にして2012年に秘書を辞めると、かつて自身が経験した秘書浪人時代の苦しい経験から、同じような人たちに救いの手を差し伸べるべく秘書退職失業秘書と新人議員の人材紹介事業「議員秘書ドットコム」という会社を立ちあげています。
異色の天職マッチングサービスということで、いろんなメディアで掲載され評判を呼びました。
ただ、鈴鹿久美子さんの知名度はどちらかというと、政治家のためのブランディング戦略家・通称「勝たせ屋」の方が高いんじゃないでしょうか。
株式会社インスタイル代表取締役として、選挙の立候補者の支援や政治家のコンサルティング・ブランディング戦略を手掛けており、
成功率は90%を超えるほど。
「勝つ人には勝つ理由がある」
「勝つ人はカッコいい」
という事実の集積に裏付けられたサービスに定評がああります。
鈴鹿久美子のツイッターやインスタグラム
鈴鹿久美子さんはツイッターやインスタグラムにはアカウントを開設していないようです。
鈴鹿久美子のブログ
勝ちたい人を勝たせます。「勝たせ屋」鈴鹿のオフィシャルブログ
鈴鹿久美子の高校や大学など学歴は?
鈴鹿久美子さんの通っていた高校については学校名は明らかになっていません。
最終学歴も慶應義塾大学とはなっていますが、司法試験を目指し始めた当時は短大に通っていたそうなので、学歴に関しては連続的に卒業・入学をしているわけではなく飛び飛びになっているとみられます。
鈴鹿久美子の結婚した旦那(夫)は?子供はいる?
秘書時代はは相当大変だったみたいですよ?。この時はすでに子供もいたので、夕食を済ませてからいろんな家事などをやっていると、寝るのは夜中の2時ぐらい。
そして、子供たちの弁当を作るために朝の5時には起きて、議員会館で始まる朝の7時半からスタートする会議には顔を出す。こんな生活が15年も続いたそうです。
鈴鹿久美子さんは短大に入学したものの、大学受験では親の反対を押し切って東大を目指して上京したそうです。
家庭教師のバイトをしながら予備校通いをして、寝る間も惜しんでの猛勉強を重ねますが、ある時、過労がたたって
予備校にいく電車で倒れて意識不明となり救急車で緊急搬送。
病院では、鈴鹿久美子さんの手帳に書いてあった知り合いの電話番号に連絡されたそうですが、
その知り合いがなんと「僕と結婚したら勉強させてあげる」と申し出て、鈴鹿久美子さんは期せずして結婚することになります。
結局、3人の子供を授かるものの度重なる子どもの病気の為に鈴鹿久美子さんは東大受験を断念。
夫婦仲は破綻して離婚してしまうものの、それでも司法試験の挑戦だけは続けていたそうです。
ただ3人の子どもを育てなければいけないため、ただ勉強しているわけにはい来ません。
学費も定期代も、部活の「合宿費用」、もひとりで何とかしなければならない状況だったことから、とりあえずすぐに見つかった働き口、議員の選挙を手伝う仕事に携わるようになります。