コンスタンティン・スコロプイシュヌイさんは当時3歳だった1990年に全身90%のやけどを負い、生死の境をさまよう一刻の猶予も許されない状況に立たされました。
ソ連(当時のロシア)の病院では手に負えないレベルだったことから、主に民間人のリレーによって超法規的措置がとられ、コンスタンティン・スコロプイシュヌイさんは一命をとりとめます。
日本とソ連は長く冷戦状態となっていたものの、この救出劇が一石を投じることになり、両国の交流が再開するきっかけともなりました。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの事故の経緯
1991年にソ連の経済体制の崩壊する約1年前の1990年8月20日。
ソ連では断水,断ガスなどの公共サービスの著しい低下が発生し、どこの家庭でも汲み置きしていた水をバケツに入れて、お湯を作るにはむき出しの電熱棒をバケツに突っ込んで熱するようになっていました。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの母親(当時26歳、看護師)も家事をしながらお湯を沸かしていたところ、
一人で遊んでいたコンスタンティン(当時3歳)が100℃近くになった熱湯入りのバケツにしりもちをつく形でバケツ内に落下してしまい、ほぼ全身が熱湯にさらされます。
母親はすぐにコンスタンチンをユジノサハリンスク州立小児病院に緊急搬送しますが、腹部・背中・尻が熱傷3度、手足が熱傷2度で全身の90パーセントの大火傷という診断。
医師からは
「この病院では50パーセントの火傷でも助からない」
「ここでは手の施しようがない」
「あと2週間も持たない」
ほぼ、コンスタンティンに対して余命宣告に近いようなことを言われます。
当時のソ連の医療技術は日本と比べて30年近く遅れていた時代背景もあり、さらに折からの政情不安と経済不況もあって物資も極端に不足しています。
病院で行われた治療は1日1回の輸血とビタミン剤と鎮痛剤の投与のみで、コンスタンティンは両親は他の病院を回っても「この病院では助けられない」と治療を断られ続けます。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの命のリレー
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの父親(当時26歳、政府機関の運転手)は「他人の皮膚を移植する治療方法がある」という話を聞き
事故発生から6日後の8月26日に友人の一人から、「近所にたまたま日本人が来ている。日本は医療が発達しているから日本に行けば助かるかもしれない」というアドバイスを受けます。
その日本人はロシア語がわからなかったものの、近所にたまたま日本語ができる朝鮮系の男性がいたことから通訳をしてもらい救助を求めます。
すると、その日本人は8月27日午前10時にサハリンの北海道庁の職員(北海道庁国際交流課係長(当時))とたまたま知り合いだったことから「サハリンに大火傷をした子がいる。日本で皮膚移植の治療を受けることはできないか。」と連絡を入れます。
ただもちろん、北海道庁の職員だって最初はどうしていいかわからなかったものの、1時間後にかかってきた2回目の電話で「(コンスタンティン・スコロプイシュヌイの)余命は70時間しかない」と言う言葉を聞き決心します。
「今、動かなければ一生の悔いになる」と腹を決めるとすぐに外務省ソ連課に連絡を取り、外務省はすぐ法務省と協議した結果、コンスタンチン一家を仮上陸で日本へ入国させることで、査証(ビザ)なしで受け入れるという超法規的措置が取られます。
北海道庁の職員は他にもサハリン州のワレンチン・フョードロフ知事にも連絡し、州知事から正式に救援要請を出してもらえるように要請すると、
北海道に対しても海上保安庁千歳航空基地に救援機の出動を依頼。
ここまでの経緯は、その日本人が北海道庁の職員に最初の電話からたった3時間しかかかっていない同日午後1時のことでした。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの治療団派遣
199年8月27日午後2時20分、サハリン州知事から北海道の横路孝弘知事宛に正式に救援要請書が届けられると、
サハリンの北海道庁の職員(北海道庁国際交流課係長(当時))は、自身が以前にたまたま出向していて顔見知りの医師がいる札幌医科大学附属病院に大使てサハリンへの医師を派遣し、その後の治療を依頼します。
札幌医科大学附属病院の医師は、緊急医療の原則として「助かる見込みがなければサハリンに置いてくる。しかし助かる見込みが少しでもあれば連れてくる。」とした上で引き受けます。
ただここで一つ問題となったのが、日本とソ連は冷戦下にありほぼ国交断絶状態にあったことから、サハリンにある唯一の空港・ユジノサハリンスク空港への航路並びに着陸方法がまるで分らなかったこと。
それぞれの空港が持っている空港の位置、滑走路の長さ、計器進入の為の周波数が記されている資料「アプローチチャート」が海上保安庁千歳航空基地になかったため、救援機を飛ばすことはできません。
「アプローチチャート」なしではいくら百戦錬磨の自衛隊のパイロットでも目隠しをして着陸するようなものですが、
関係者はいろいろな所に電話をかけまくったところ、なんとJAL(日本航空)のとある職員ががたまたまユジノサハリンスク空港のアプローチチャートを持っていたことが判明し取り寄せます。
※繰り返しになりますが、ほぼ国交断絶状態にあるため、JAL(日本航空)職員がユジノサハリンスク空港のアプローチチャートを持っていたことは、ほぼ趣味の領域だったと思われます。
千歳航空基地でソ連領事館員と綿密な打ち合わせを済ませた後、8月28日午前3時45分に操縦士、医師、通訳等、13名の日本人を乗せた海上保安庁千歳航空基地所属 YS11-LA782「おじろ」が、サハリンに向け千歳航空基地を離陸します。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの緊急搬送
「余命70時間」の最初の電話から、20時間が経過しようとしていた8月28日午前6時43分。
YS-11は濃霧のためサハリン上空を1時間半ほど旋回を余儀なくされたのちにサハリン到着すると、日本の医師はそこで初めてコンスタンティン・スコロプイシュヌイが火傷をして1週間経っていることを知ります。
コンスタンチンとサハリン州知事から唯一同行を許された父親を乗せたYS-11は同日午前7時47分にユジノサハリンスク空港を離陸して日本へトンボ返り。
機内ですぐにコンスタンチンの応急処置、酸素吸入、点滴が行われ、同日午前8時55分に丘珠空港に着陸。
すぐに北海道警察のヘリコプターで医大病院へ搬入、同日9時10分に札幌医科大学附属病院に到着した。
自衛隊の救援機が日本を飛び立ってからコンスタンチンが札幌医科大学附属病院に搬送されるまでなんと5時間という神がかり的なスピードでした。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの治療開始
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの治療・手術にに当たっては、コンスタンチン自身の頭皮、遺族から提供された死亡した日本人男性の皮膚が使われています。
8月30日に東京の病院から、遺族の了解が得られるという幸運に恵まれて採取された皮膚で、札幌医科大学附属病院の緊急集中治療部の金子正光教授らの医療チームによって4時間の皮膚移植手術が行われます。
不足する皮膚はキチン質から合成された人工皮膚も使用され、手術から一週間後には移植した皮膚が定着したことが確認され、火傷から10日目にコンスタンティンは意識を回復しました。
9月8日にはようやくコンスタンティンの母親がサハリン州知事からソ連を出国する許可が下り、特別上陸手続きで来日。
その後は一週間ごとにコンスタンティンの手術を繰り返し、10月23日には一般病棟に移るまでに回復。
そして札幌医大病院と旭川赤十字病院で治療を受けた後に11月23日に退院し、無事に帰国の途についています。
コンスタンティン・スコロプイシュヌイの現在
コンスタンティン・スコロプイシュヌイは、2015年時点で運送業で生計を立て、妻と子の3人家族で暮らしていることが報じられました。
治療費と滞在費のために日本国民から1億円を越える寄付が集まりましたが、治療費などを引いた残りを基に公益信託北海道・ロシア極東医療交流基金が1992年に設立されています。
その資金をもとにして北海道とサハリンとの間で毎年、医療技術の勉強会が開かれ、患者の相互受入れ事業で、現在までに170人以上が日本に緊急搬送されて治療を受けています。
日ソ国境を越えたその救出劇は、冷戦終結直後の時代に、日本と旧ソビエト連邦との関係が改善されるきっかけとなりました。