明智光秀から細川藤孝への手紙の内容は?本能寺の変の真相・黒幕は?

スポンサーリンク
当サイトはアフィリエイト広告を使用しています。
0未分類

明智光秀による本能寺の変は、その動機を裏付ける確たる資料が発見されていないことから、様々な憶測が流れる日本の歴史の未解決事件として取り上げられることが多いですね。

野望説や怨恨説、四国説に黒幕説など様々な説が取り上げられてきましたが、本能寺の変で織田信長を打ち取った後、明智光秀から細川藤孝へあてた手紙の内容が注目されています。

細川藤孝(のちの幽斎)は細川家の当主として文武両道の優れた素質を持つ人物の一人で明智光秀の盟友としても知られる武将。

息子の細川忠興(ほそかわただおき)は、絶世の美女とも言われた明智光秀の娘・細川ガラシャを結婚しており両家は姻戚関係にありました。

スポンサーリンク

明智光秀から細川藤孝への手紙の内容は?

明智光秀は、豊臣秀吉と同じく低い身分ながら織田信長から絶大な信頼を得ると一国一城の主へと出世した戦国武将。

織田信長に忠誠を誓っていたはずの明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を自害に追い込んだわけですが、細川藤孝は本能寺の変の直後明智光秀から、手紙を受け取っていました。

その内容はを簡潔にまとめると「自分の味方になってほしい」というもので、もう少し詳しく解説すると次のような3つの内容の箇条書きとなっていました。

https://liaty.com/letters/akechi-mitsuhide


織田信長ならびに嫡男の織田信忠を討ち果たした明智光秀は織田家の名だたる家臣団

柴田勝家
滝川一益
前田利家
羽柴秀吉
織田信孝

らを敵に回すことになり、遅かれ早かれ攻撃される状況にありました。

柴田勝家は魚津城(富山県)で上杉軍との攻防を続けていて、羽柴秀吉は中国地方で毛利討伐に遠征をしていた中、京都周辺の織田信長の守りは手薄に。

織田信長が秀吉の援軍に出かけるところを明智光秀が吸収したわけですが、そのため、明智光秀は一刻も早く守りを固める必要がありました。

近畿地方にいた

筒井順慶
中川清秀
高山右近

そして、細川藤孝といったたち有力武将を、味方に引き入れる必要がありました。

中でも「細川藤孝」明智光秀にとっては共に室町幕府15代将軍足利義昭に仕えていたころからの盟友で、さらに光秀の娘「玉」を嫁がせていたことから、まず手を貸してくれるに違いないと踏んでいたのではないでしょうか。

明智光秀による本能寺の変の動機とは??

明智光秀が細川藤孝にあてた手紙には「本能寺の変」の動機が記されています。

■明智光秀が細川藤孝にあてた手紙の現代語訳

御父子(藤孝・忠興のこと)が元結いを払って出家したことは、私も一時は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身(重臣などのこと)を派遣して、是非協力をお願いしたい。

領地の事は、内々摂津(兵庫県)を差し上げようと考え、上洛をお待ちします。但馬や若狭をお望みならば、他の者と取り合いになっても、必ず貴方が入手できるようにする。

私がこの度の予想外のことを決意したのは、他念はありません。娘 婿の忠興などを取り立てるためであり、他の考えからではない。50日100日の内には近国の情勢も安定するであろうから、自分は引退して、十五郎(光秀の長男))・与一郎(細川忠興)等に引き渡して引退するつもりである。詳しいことは二人の使者が申し上げる。


読み方によっては「藤孝の息子である『細川忠興』たちをもっと出世させるために織田信長を討った」というふうにも解釈できそうです。

明智光秀自身は、どうやら織田信長による政権運営には閉塞感を感じていて、天下統一は目前に迫っていたものの、千載一遇のチャンスが到来したことから「あれ、ひょっとしていけるんじゃね?」とことに及んだのではないでしょうか。

明智光秀にとっては天下統一よりも自分に近しい関係にある人たちが健やかに暮らせることを重視していたのかもしれません。

ただ、明智光秀のように智謀にたけた人物でも、魔が差すことは十分に考えられます。

織田信長を打ち取るチャンスこそあったわけですが、その後のことまで深く考えるほどの時間の猶予がなかったことから、
「細川藤孝」を味方に引き入れるために、ありもしないことを書きまくった可能性も十分に考えられます。

明智光秀からの手紙を受け取った「細川藤孝」は光秀の味方となることを拒絶し、筒井順慶らも二の足を踏んだことから明智光秀は近畿地方で味方を増やせずに孤立。

中国返しをやってのけた羽柴秀吉によって本能寺の変から11日後の山崎の戦いあっけなく討たれてしまいましたが、
細川藤孝がもしも、明智光秀に味方していたら、歴史は変わっていたのかもしれません。

細川藤孝ですら明智光秀を見捨てたことが、近畿地方の武将たちがことごとく「羽柴秀吉」に味方する大きな理由になったと考えられます。

細川藤孝が持っていた兵力は、多く見積もっても「5~6000人」程度にすぎず、とても羽柴秀吉の大軍を打ち負かすほどの兵力ではなかったものの、
少なくとも「時間をかせぐ」ことはできたはずで、「筒井順慶」「中川清秀」「高山右近」に対して説得工作をしたり、
「上杉」「北条」「毛利」「長宗我部」など織田家と敵対する大名を味方に引き入れることはできたかもしれません。

明智光秀による本能寺の変のその他の説

明智光秀による本能寺の変では様々な動機が挙げられていますが、

野望説
怨恨説
黒幕説
四国説

といったものがあります。

ただどれも、証拠となりえる資料はなく、矛盾点もはらんでいます。

■野望説
古くからある説の一つが、天下を狙っていた光秀の野望説です。これは変の直後から語られ、『太田牛一雑記』でも語られています。光秀は本能寺の変を起こす前に京都・愛宕神社で連歌会を開催していますが、そこでの発句「時は今 雨が下しる 五月哉」は、謀反の意を示していたという見方もあります。

■怨恨説
『絵本太閤記』には、饗応役を解任されて食い下がる光秀が殴打される場面が描かれています。
江戸から明治にかけて主流だったのが怨恨説です。これは信長から横暴な扱いを受けていた光秀が恨みを募らせて謀反を起したという説で、古典史料には遺恨を裏付ける逸話が多くみられます。ただしこれらの史料は一次史料ではないため、信ぴょう性に乏しいとも考えられているようです。

■黒幕説
光秀の謀反とされる本能寺の変ですが、実は黒幕がいたという説もあります。後に天下人となった秀吉や家康と共謀していたという説や、朝廷が光秀に信長暗殺をもちかけたという朝廷黒幕説など、かなり多くの説が存在します。しかし矛盾点も多く、信ぴょう性には欠けるようです。

余談ですが、明智光秀から細川藤孝へあてた手紙には黒幕(と言われるような人物)が出てきません。

もし朝廷や足利義昭などが背後に居たのだとしたら、明智光秀は手紙の中で必ずそれらの名前を出して説得の材料にしたはずです。

それが出てこないのは、そういう事実が無かったということだと考えられます。

■四国説
近年注目をあびているのが、2014年に岡山県の林原美術館と共同研究する岡山県立博物館が公表した書状を発端とする四国説です。その書状は長宗我部元親のもので、信長の命令に従うことを告げる手紙でした。
本能寺の変が起こったのは6月2日ですが、この日は丹羽長秀らが大坂から四国征伐に出陣する予定だったともいわれています。元親と関係が深かった光秀は、信長の四国征伐を回避したかったのかもしれません。

本能寺の変の直前、信長は、それまで放置に近かった三男の信孝に四国を与えると言って遠征軍の司令官に任命している。

タイトルとURLをコピーしました