昨今、世間を大きく揺さぶるコロナ問題は「囚人のジレンマ」から考えると、感染拡大を食い止めて以前の日常を取り戻すのは極めて困難(ほぼ不可能)だということがわかってきます。
誰だって「○○しなきゃいけないのは分かっているんだけど、つい××しちゃう」みたいに、頭では非合理的だとわかっていても、ついついやってしまうことってありますよね。
この時の心理状態は実はゲーム理論における「囚人のジレンマ」で説明することができます。
ゲーム理論とは、経済学や政治哲学など様々な分野で応用されている数学生まれのモデルのこと。
囚人のジレンマとは
囚人のジレンマは、個人の合理的行動に任せると、誰もが非協力戦略を選択してしまうこと。
ゲーム参加者がお互いに協力する方が良い結果になると分かっていても、協力しなくても利益を得られることがわかると、とたんに協力しなくなってしまいます。
結果的に各個人が自分の利益が最大化させる合理的な選択をしてしまうと(利己的に行動してしまうと)、社会全体からしてみれば望ましい結果とならないことから、社会的ジレンマとも呼ばれる。
1950年に数学者のアルバート・タッカー氏が考案した『ゲーム理論』のモデルの一つで、登場人物が2人に単純化された基本の「囚人のジレンマ」が成立する為には、次の前提条件が必要になります。
1.相手が協力した場合、自分は協力しない方が有利
2.相手が協力しない場合、自分も協力しない方が有利
3.双方とも協力しない場合、双方とも協力した時より悪くなる
4.この二人は意思疎通できない
具体例として、下記の問題を考えてみてください。
あなたと友人の2人は、共謀して銀行強盗を働いた容疑で警察に身柄を拘束されました。
ただ警察としては確たる証拠がないことから、別々に取り調べを受けているあなたと友人にそれぞれ、同じ条件で司法取引を持ち掛けます。
(1)「2人とも黙秘した場合は、2人とも懲役2年」
(2)「どちらかが自白をして罪を認めれば、自白をしたほうは不起訴で済むが、黙秘したほうは懲役10年になる」
(3)「2人とも自白した場合、2人とも懲役5年」
■ | 友人:自白する | 友人:黙秘する |
自分:自白する | 自分:懲役5年 友人:懲役5年 | 自分:不起訴 友人:懲役10年 |
自分:黙秘する | 自分:懲役10年 友人:不起訴 | 自分:懲役2年 友人:懲役2年 |
2人とも黙秘を貫き通せば2人とも最も軽い刑罰(懲役2年)ですみますが、もし友人があなたのことを裏切って白状をした場合、友人は不起訴で済みますが、あなたは懲役10年の実刑という最悪の結果を迎えることになります。
相手(友人)の回答によって自分の刑の重さが左右されるわけですが、ここで話を整理してみると、
A)相手が黙秘した場合:自分は黙秘すると懲役三年・自白すると不起訴 → 自白したほうが有利
B)相手が自白した場合:自分は黙秘すると無期懲役・自白すると懲役10年 → 自白したほうが有利
2人とも相手を信用して黙秘をしていたほうが合計の懲役は4年で済むものの、「囚人のジレンマ」では相手の回答を問わず、自分は自白すると有利な結果となります。
ゲーム参加者全員がもっともハッピーとなる選択肢があるにも関わらず、各参加者が自分にとって都合の良い判断をした方が合理的という状況で板挟みになる=ジレンマに陥らされます。
コロナ禍の自粛・外出問題を「囚人のジレンマ」に当てはめる
「囚人のジレンマ」を数段階ほど飛躍させることになりますが、今回のコロナ感染のケースを「囚人のジレンマ」に当てはめて考えてみます。
ここでは相手は一人ではなく「自分以外の人みんな」とします。
(1)「あなたと相手が両方とも自粛した場合、収束期間(我慢する期間)は2週間」
(2)「どちらかが外出した場合、外出をしたほうは自粛せずに済むが、我慢する期間は4週間以上」
(3)「両者とも外出した場合は、我慢する期間は数か月以上」
※収束期間の「数か月以上」とか「4週間以上」とは仮定です。
■収束期間 | 友人:外出する | 友人:自粛する |
自分:外出する | 数か月以上 | 4週間以上 |
自分:自粛する | 4週間以上 | 2週間 |
全員が一歩も外に出なければ、理論上は新規感染者がゼロになって、自粛期間は2週間で終わるはずです。
ただ「自粛しなきゃいけないのは分かっているんだけど、つい外出しちゃう」と我慢できずに外出しちゃう人がいるからこそ、コロナの封じ込めができていないのが現状です。
「囚人のジレンマ」では全員がお互いのことを信頼しあうことで、自分にとっても社会全体にとっても、最高の結果は得られるものの、ゲーム理論では不可能とされていて、理想論、机上の空論と結論付けられています。
現実を理想に近づけるのが政治のなすべきことだとも思いますが、この点については後でまた触れたいと思います。
コロナ禍の企業活動を「囚人のジレンマ」に当てはめると?
次に企業単位で考えてみましょう。
(電力などのライフラインを担う会社を除いて)全社が一斉に休業していたら、2週間分の経済的損失は発生するけど、2週間後には活動を再開できたはずです。
が、なんだかんだでみんな働いてたのが現実で、活動した企業は売り上げ確保、休業した企業は売り上げ0みたいな状態となります。
■利益 | 他社:営業する | 他社:自粛する |
自社:営業する | 自社:わずかな利益 他社:わずかな利益 | 自社:そこそこの利益 他社:利益0 |
自社:自粛する | 自社:利益0 他社:そこそこの利益 | 自社:利益0 他社:利益0 |
しかも、2週間で終息しないから自粛期間がさらに伸びて休業した企業だけがバカを見ることになりますから、自然な成り行きとして
「休業して売り上0のまま自粛期間延長よりは、少ないながらも売り上げ確保しつつ自粛期間延長の方がいくらかまし」
という考え方になるのは避けられないでしょう。
今まで説明をした囚人のジレンマのとおり「相手だけ自白して懲役10年もらうよりは、自分も自白しちゃって懲役5年の方がまし」みたいな結論に行き着いてしまうわけです。
「囚人のジレンマ」はコロナ以外にも見られる
ちなみに囚人のジレンマは、環境問題や税金、果ては地域の激安スーパーの値下げ競争など様々なケースに当てはめることができます。
環境問題を例に挙げると、環境汚染が進む湖を共有するA国とB国があるとして、湖の浄化費用の分担方法を政治的に解決することを考えてみましょう。
ただし浄化事業に予算を使うとなると設備投資や開発費用に回せなくなり、その分、自国産業の発展にブレーキがかかり国際競争力に遅れをとり経済的損失を生みます。
この場合、考えられるパターンは次の3つ
両国とも浄化投資しない
両国とも浄化投資をする
どちらかが浄化費用をすべて負担し、どちらかが経済発展に費用を使う
両国とも浄化投資しない場合には汚染問題が解決されず、将来的により大きな浄化費用を負担する羽目になりますが、両国とも浄化投資をすると多少の経済発展は犠牲になるものの、浄化費用の負担は小さくて済みます。
■浄化費用 | B国:投資する | B国:投資しない |
A国:投資する | A国:2億円 B国:2億円 | A国:4億円 B国:0円 |
A国:投資しない | A国:0円 B国:4億円 | A国:0円 B国:0円 ※将来的に浄化費用は増加 |
現実的に考えると「相手に浄化基準を満たす為の投資をしてもらい、自国は経済発展の為の投資をする」というのが自国にとって最適解となりますが、双方とも同じことを考えるであろうことは明白で、結局、囚人のジレンマに陥ってしまいます。
A国の視点で見てみますと、
B国が協力した場合(浄化投資した場合)→ A国は「協力しない」方が利益が大きい
B国が協力しない場合(浄化投資しない場合) → (将来的に浄化費用は増加するが)A国は「協力しない」方が損失が小さい
となるからです。
結果的に「A国もB国も浄化の為の投資をせず、短期的には今のままにしておくほうが最適な戦略」という結論に達してしまいより大きな浄化費用を負担する羽目になるという、全体として考えると社会的損失が増大することになります。
先ほどの「コロナ禍の企業活動」では説明を割愛をしましたが、両社が足並みをそろえて自粛に協力をしなければ、コロナ収束にさらに時間がかかり、利益はますます小さくなります。
店舗間の激安競争でも、両者が協力(妥協)せず安さで競争してしまうと、最終的に限界以上の値下げをする事態に陥り両方とも共倒れの結末を迎えます。
逆に、価格協定で両方が協力すると、一人勝ちはできないものの、そこそこの利益は見込める、という状態になります。
ちなみに、相手の取りうる全ての選択に対し、自分の利益を最大化した場合の解(戦略)のことを「支配戦略」と呼ぶそうです。
「囚人のジレンマ」のコロナ禍を解決する糸口
囚人のジレンマを三人以上の集団に拡大解釈し「社会的ジレンマ」と呼ぶ社会学者も一部います。
同様に、個人にとっての利益と三者以上の集団全体の利益が対立する問題をとりあげた「社会的ジレンマ」と呼ばれる理論で、19世紀の数学者・ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは、このような社会的問題を解決するために“利他的利己主義”が生まれるという考え方を示しました。
ハーディは「共有地の悲劇(コモンズの悲劇)」の例を挙げて解説しています。
産業革命後のイギリスでは、農村の農民達は「コモンズ」という共有地で個人所有する羊を放牧し羊毛を収穫することで利益を得ていました。
農民一人一人の収入を考えると共有地に放牧する羊が多ければ多いほど羊毛も増え利益に繋がります。
しかし皆が羊の飼育数を増やしてしまうと牧草があっという間に食べつくされ共有地が荒れ果て、結局は全員が羊を飼えなくなり共有地全体の損失に繋がります。
さてこの問題を解決するためにはどうすればよいのでしょうか?先ず考えられるのが共有地の管理ルール作り管理人を設置し、ルールを破った人には罰を下し管理人には報酬を与えるという“アメとムチ”作戦です。
また共有地の状況、つまり社会の仕組みやルールや道徳について教育し価値観へと転換を促すことも可能です。
「囚人のジレンマ」のコロナ禍は解決不可能?
コロナの感染症対策とはいえ、本当は誰もが進んで自粛したいわけではありません。
しかし、非協力を放置してはいつまで経っても感染症は封じ込めることはできません。
「囚人のジレンマ」という状態に陥った時、これを解決させる為には、「罰金(懲罰)を課す」「制限を課す」という方法があります。
例えば、環境問題に直面したA国B国の例で言えば、「一方が浄化の為の投資を〇〇ドルした場合は、もう一方の国は〇〇ドルの浄化投資をしなければならない。履行が行われない場合は制裁金として〇〇ドル課す」といった感じです。
しかしながらどちらも対策にはコストが発生し、また自分以外の人がルールを守っているかどうかの不信感が生まれるなど、別のジレンマが発生します。
北海道大学などの共同研究では囚人のジレンマ実験で懲罰が報復を生む危険をはらんでいることもわかっています。
最終的にはこれらの施策を含めて「社会全体の利益になるような行動こそが自分の為になる」という“利他的利己主義”を個々人が確立させていくことが重要であると、ハーディは唱えています。
囚人のジレンマゲームでは社会的に望ましい選択がなされるような仕組みが開発されていますが、残念なことにこのようなコロナゲームで全員が自粛する自然な仕組みをデザインすることは不可能であることが知られています。
対価(供給のための費用)を支払わないで便益を享受する「フリー・ライダー」の数をゼロにはできないからです。
経済的・時間的・労力的なコスト(費用)を支払わずに、社会政治システムの恩恵(たとえば消防、警察、国防、放送など)を受け取ろうとするのがフリー・ライダーです。
昨今のコロナ騒ぎで言うと、自粛もせずに外出をしてコロナに感染したのに、自粛した人と同じクオリティの医療サービスを受けようとするのはフリー・ライダーです。
身近なところで言えば、高い給与をもらっているのに仕事をしない上司、手柄を横取りする上司や同僚など、人の成果に「ただ乗り」する人たちもフリーライダーの一種。
フリー・ライダーが便益を享受できるのは、他者が制度やルールの維持するコストを負担することで自分はその負担を免れるからであり、それゆえフリー・ライダーは不正と言えます。
多くの国々で自宅待機を強制するロックダウン(都市封鎖)が採択されたのは、フリー・ライダーの数を可能な限りゼロに近づけることが目的ですが、日本では個人の人権を尊重するがゆえ強制力を持つ施策は採用されず、緊急事態宣言下で政府による80%以上の自粛の要請(つまりお願いレベル)にとどまっています。
コロナ禍の先を考える
コロナ問題が「囚人のジレンマ」に陥ってしまう以上、全員が手を取り合って協力して自粛して、コロナを早期に抑え込むことは不可能に近いものがあります。
罰金や制限(場合によっては逆に報酬を払う)といったやり方で、半強制的に協力し合うように仕向けることはできるものの、それはそれで別のジレンマを生むことになり抜本的な解決にはなりません。
ではコロナ問題が発生してしまったこの世界線で私たちはどのように考えて行動しなければいけないのでしょうか?
一つの結論としては、以前の日常を取り戻すことはもはや不可能だと割り切ってしまうことです。
コロナ騒ぎが始まる前の平常は単調で退屈なものだったかもしれないが、決して以前の状態に戻ることはないと割り切って、新しい生活様式を受け入れることです。
私たちは今まさに出現しようとしている新しい世界に対して適応しなければいけない段階にきていると、イギリスNESTA(科学技術芸術国家基金)が『「平常に戻る」ことはない』というタイトルで寄稿しています。
日本ではあまり当てはまらない点もありますが、大筋ではかなり的を射ているので最後に、記事の和訳を紹介します。