出川哲朗さんの実家は横浜で100年以上続く地元では有名な老舗のり問屋「蔦金商店」で3人兄妹の末っ子として誕生。
幼少期は何不自由のない暮らしをしていたものの、高校在学中から家業に翻弄され、芸能界に入るころがまさに波乱万丈と言える人生を過ごしています。
出川哲朗が尼寺で修行経験!
明治27年創業の海苔問屋「蔦金商店」は出川哲朗さんの実家として知られ、出川哲朗さんがパッケージに登場する「元気のりのり」が看板商品となっています。
出川哲朗さんが子供の頃には家にはお手伝いが5人いて幼稚園にはベンツで送り迎えと超お坊ちゃん育ち。
高校時代はアイパー髪型になりキャッチフレーズが”切れたナイフ”。
今でこそ経営は順風満帆のようですが、高校3年生のときに父・誠一郎が事業に失敗
小豆の先物取引やクラブ経営に失敗。億を超える莫大な借金を背負うと、あれだけ繁盛していた「蔦金商店」は倒産寸前。
高校3年生だった出川哲朗さんも、一刻も早く働きかざるを得なくなり、高校卒業後は親戚の紹介で京都の高級料亭で料理人としての道を歩むことを決意。
ただ料理経験も特になかったため、関係の深い尼寺で半年間の精神修行を命じられ、雑用を任されることになります。
毎朝5時には起きて3度の食事の支度や境内の掃除などをこなし、それはそれは厳しい修行だったようです。
そんな最中に出会ったのが矢沢永吉の著書「成りあがり」。
貧乏だった矢沢永吉さんが子供時代からスーパースターへと駆け上がるさまを描いた自伝で、
特に心を奮い立たせた言葉が「だれもがBIGになれる道を持っている」という言葉だったそうです。
夢を見つけられなかった思春期の18際の少年には突き刺さり自分の好きなことを思い出すと、映画を好きなことを思い出します。
「俳優としてBIGになれる道があるはず」と映画界の矢沢永吉になる!という気持ちがどんどん強くなり尼寺を出ることを決心します。
出川哲朗さんは、お世話になった尼さんに土下座して謝って号泣して辞めさせてもらうと、俳優を目指し19歳で横浜放送映画専門学院に入学。
たちまち全校生徒のリーダー的な存在になると、そこで運命を変える盟友、出川哲郎さんより先にBIGになる内村光良がいました。
映画の専門学校に行ったのは目的は俳優以外にも将来、映画の専門学校を作ろうと思ってメンバー集めもあったそうで、出川哲朗さんは内村さんを最初に自身の劇団に勧誘しています。
その後、南原清隆とも仲良くなり劇団員に勧誘していますが、その専門学校の卒業式ではあの伝説のスピーチを残すことになります。
出川哲朗が修行した尼寺の名前は場所は?
働くと宣言してからたった半年で実家に帰るのは気まずさがあったそうですが、母親に役者になりたいと話すと「やっと哲っちゃんらしくなったね」などと声をかけてくれたそうです。
この時、姉の峰子さんは母から「(哲郎が)好きなことをしたいと言われた時に、母がものすごく喜んで報告としてくれた」と、以前にテレビ番組で証言していました。
京都の尼寺から横浜に向かった。役者を目指して入学したわけですが、出川哲朗が修行した尼寺の名前は「月心寺(げっしんじ)」とよばれる臨済宗系のお寺
場所は、滋賀県大津市大谷にあります。
住所:所在地: 〒520-0062 滋賀県大津市大谷町27-9
精進料理が有名なお寺ですが、その料理を「吉兆」創業者の湯木貞一さんが「天下一」と高く評価していたそうです。
出川さんはもともと料亭で働く予定だったことを考えると、日本料理の料亭「吉兆」だったのではないでしょうか。