哲学の思考実験としては非常に有名な「トロッコ問題」が山口県岩国市の小中学校の授業で取り上げられたものの、
学校側に抗議連絡が入って中止となっただけではなく学校が謝罪する事態に発展しました。
トロッコ問題とは簡単に言えば、1人を助けるか?それとも大勢の人を助けるのか
どちらが正義か(道徳的か)?を考えるもので、多くの人と共存する人間社会では避けては通れない課題について目を向けたり、
今まで無意識だった潜在的な課題を浮き彫りにしてくれるので、日本でも知名度の高い政治哲学者「マイケルサンデル」さんも、
ハーバード大学の授業でたびたび取り上げているテーマになります。
岩国市の小中学校で取り上げたトロッコ問題とは?
トロッコ問題にはいくつかの前提条件(設定)があってバリエーションがあるものの、
最もオーソドックスなものは、
制御不能のトロッコが猛スピードで進む先には2つの線路に分かれる分岐点があり、
一方は崖、一方は多くの人が作業をしている場所につながっています。
あなたは今、分岐点のすぐそばに立っていて分岐器(ポイント)を変えなければ、
このままトロッコは大勢の人がいる場所に突っ込んでしまいます。
あなたはポイントを変えて崖の方に落としますか?それとも、そのままにしますか?
悪魔の選択を迫られることになるものの、トロッコ問題はその派生バージョンも含めると、
非常に示唆に富んでいて、政治哲学や法律制定、さらには経済問題まで考えさせられます。
単純に犠牲になる人数だけを考えると、ポイントは変えるべきだという判断に至り、
哲学的には「功利主義」(利益第一主義)という考え方になります。
仮に功利主義を正義とみなすのであれば、経済学的には(どんな手段を使っても)お金を儲ける人が正義と言えるし、
さらに税金で儲けたお金を徴収するのは功利主義の理念に反する「悪」とみなすこともできます。
法律的に考えると、ポイントを変えたことによって、
あなたはトロッコに乗っていた人が犠牲になることに加担したことによって、
何らかの罪に問われる可能性も出てきます。
トロッコ問題では、
- 大勢の人がいると言っても犯罪者だったらどうするか?
- ポイントは最初から崖の方に向けられていた場合はどうするか?
といったバリエーションがあるほか、
医師が1人の健康な人を犠牲にして臓器を取り出し、
臓器移植を待つ5人の命を救うのは正義と言えるのか?
といった倫理観も問われるような問題もあります。
トロッコ問題(岩国市)の抗議した人は誰で理由は何?
岩国市の小中学校で実施されたトロッコ問題について学校に抗議をしたのは、
実際に授業を受けた児童・生徒の保護者と報道されています。
抗議をした理由は、「子どもに不安を与えた」というもので、
学校側が保護者に文書で謝罪。
さらに岩国市議会でも授業でトロッコ問題を取り上げたことが指摘され、
教育委員会の副教育長が答弁をする事態にまで発展しました。
学校教育的には確かに余計な不安をあおるような授業は不必要だと思いますが、
トロッコ問題を考えることによって得られる経験というのは、
小学生でも中学生でも非常に示唆が富むものだと感じます。
別に設定どおりのトロッコ問題のように犠牲者が出るようなものではなく、
怪我をするとか、何かをもらえなくなるとか、ソフトな設定に置き換えることもできます。
岩国市教育委員会は「ひとりでは解決できない問題を抱え込まずにSOSを出してほしい」
という考えのもとにトロッコ問題を授業で取り上げたことを表明していて、
意図は十分に理解できるものだし、そのためにトロッコ問題を使ったのは妥当のように感じます。
不安を感じた生徒・児童がいたという事実はあるものの、
子供同士の会話を聞いていると、意外と残酷な言葉を日常的に使っているので、
逆に大人が過敏に反応してしまうことが子供の不安を余計に煽ってしまわないか心配です。
トロッコ問題(岩国市)の小中学校はどこ?
トロッコ問題を取り上げた岩国市の小中学校というのは、
岩国市立東小学校の5、6年生
岩国市立東中学校の2、3年生
合計で300人あまりと言われています。
小学校5年生、6年生ともなるとまだまだ子供とは言え、
自分でいろんなことが判断できるようになる年だし逆に判断しなければいけない年代と言えます。
トロッコ問題を取り上げるのに幼すぎるとは感じないのは私だけでしょうか?
100歩譲ってトロッコ問題が生徒の不安をあおるとか、残酷だとしても、
現実にはまだ小学校5年生にもなっていない子供に親の不幸など生死について考えさせる出来事が起きたり、
自分自身の命が危ぶまれる事件・事故、怪我や病気におちいることもあり得ます。
世の中はきれいごとばかりで済まされるわけではないので、
小学校のうちにトロッコ問題について考える機会があったことは、
プラスに働くのではないかと感じます。