多田純一さんは登山を終えた両神山から下山中、道に迷って崖から転落し、左足を解放骨折してその場から動けなくなるという遭難を経験しています。
埼玉県の山岳救助隊の活躍で一命をとりとめることができましたが、多田純一さんの救助は「山岳救助史の奇跡」として今でも語り継がれ、テレビ番組「逆転人生」でも紹介されました。
■遭難回避の3大原則
自分(たち)の能力を過小評価する
危険を予測する
金で買える安全は買う
多田純一が遭難した原因・理由は?
多田純一さんが遭難したのは2010年の夏のこと。
場所は埼玉県の秩父市・小鹿野町にまたがる標高1700メートル超の山・埼玉県の両神山(1723メートル)でした。
遭難した原因・理由としては、
登山計画書の未提出
古いガイドブック
軽装
油断・焦り
という4つが重なったことによるものでした。
登山を始めてまだ1年も経っていなかったという多田純一さんは、いつもなら必ず、登山道の入り口にあるポストに登山届(登山計画書)を出していたそうです。
両神山の登山でも登山計画書は作成していたようですが、登山ポストを見落としてしまいました。
そして、山頂で一息ついて下山を始めたとき、途中で二手に分かれる山道に遭遇。
「せっかくだし、下りは違うルートを通ってみよう」と古いガイドブックを頼りにしてしまったことから、大幅に道を誤ることになります。
多田純一さんはもともと両神山には日帰り登山の予定でテントを持って着ていませんでした。
食料も山頂で食べた軽食の他にあめ玉7個のみ。
ルートを間違えて沢の中へと入ってしまい、バスの時間も近づき下山を焦ってしまったため、足を滑らせてごろごろと崖を転げ落ちます。
沢の近くで止まったもの、左足を見ると太い骨が皮膚を突き破って飛び出す解放骨折していて、傷口からと血が噴き出していました。
多田純一の遭難中の経緯
ぶらんと力なく垂れ下がった左足の靴下は真っ赤に染まり、思い出したように激痛が走ります。
多田純一さんは持っていたシャツを裂き、携帯灰皿のひもで縛って応急処置をしますが、携帯電話は圏外で救助を呼ぶこともできません。
もちろん歩くこともできないので救助を待つしかなかったものの、逆に身動き取れない状況となって体力を温存できたことが、多田純一さんが命を取りとめた一つの要因となりました。
多田純一さんは移動はできないにしても、ポリ袋に免許証や保険証を入れて沢に流すなど、救助隊に発見してもらうための努力をしています。
出血の止まらない左足の血を止血するために、映画「ランボー」で見たシーンを思い出し、ナイフを火であぶって傷にあてるという意識が跳びそうになる苦痛をこらえて血を止めています。
左足に巻きつけたタオルの中に数十匹のウジ虫もわくようになり、持っていたあめ玉7個も3日目になるころには食べつくします。
空腹を紛らわすために、アリやミミズさえも口に入れ、喉の渇きをやり過ごすためにペットボトルに自分の尿をためて飲んだりもした。
遭難した多田純一の捜索・救助は?
多田純一さんは両神山の登山に向かう前、同居していた母親には「くさり場のある、秩父の百名山に登ってくるね」として話していませんでした。
秩父の百名山は「甲武信岳」「両神山」「雲取山」があり、どの山にも登山ルートが複数あるため捜索は難航。
埼玉県警の山岳救助隊は広大な範囲を捜索したが、手がかりのないまま1週間が過ぎた。
一週間も捜索して見つからなければ、生きていた例は少ないことから通常、捜索は打ち切られるのですが、「両神山での遭難は探せば必ず出て来る」という捜索隊隊長の信念のもと、救助隊は諦めませんでした。
このことも多田純一さんが奇跡の生還を果たす一つのきっかけとなりました。
両神山の一部を所有し、長年、ボランティアで遭難者の救助にあたってきた山中豊彦さんは多田純一さんの指名手配写真を作成し情報提供を呼びかけます。
足取りが途絶えた西武秩父駅近くで、いろんな人に見せて回ったところ、続々と目撃情報が集まり、交通系ICカードの記録からバスに乗って多田純一さんが両神山に向かったことも特定できました。
1週間以上たって、やっと捜索範囲が絞られたとき、多田純一さんは雨で増水した沢の水に流されかけていて、枕代わりのリュックが流されてしまっていました。
そして、遭難から13日がたった8月27日。前日に沢のあたりでカラスがたくさん鳴いていたことから、その沢に狙いを定めて捜してみると、増水で流された多田さんのリュックを発見。
当時、山岳救助隊の副隊長だった飯田雅彦さんが、ほどなく多田純一の姿を発見するのでした。
「多田さんですか」と声をかけられ多田純一さんは、隊員2人が自分をのぞき込むその光景が信じられず、思わず「手を握ってもらえますか」という言葉が口をついて出たそうです。
ただ、多田純一さん収容するため、救助隊をヘリを呼ぶも大雨のため一時引き返します。
沢の水かさは増して行き、多田純一さんさんも救助隊も危険な状況になりましたが、すんでのところで多田純一さんさんを載せた担架がヘリへと引き上げられました。
多田純一さんさん発見がもしあと20分遅れていたら、沢の水の上昇から多田さんは逃れることが出来ず命を失うことになっていたかもしれません。
遭難した多田純一の現在は?
多田純一さんは発見時、フード付きジャンパー姿で体の上には開いた傘が置かれていたそうです。
左足は、完全に腐っていて切断は免れないと覚悟していたそうですが、両足を残すことができました。
埼玉医科大学国際医療センターで、腐敗した左足の太い骨を取り除き、右足の骨の一部を代わりに入れるという前例のない手術が行われました。
右足が動かなくなるリスクもありましたが、 9回の手術と1年以上のリハビリを経て、多田純一さんの奇跡的に左足は残りました。
遭難から現在まで、多田純一さんは一度も登山には行っていないそうですが、もしかしたら本人はまた登山をしたいと思っていたものの周囲に強く止められたのかもしれませんね。
多田純一さんは遭難後、当時の恋人と32歳で結婚し、2人の子供を授かっています。
遭難前と同じ東京都大田区に住んで、今も同じ会社で働いているそうです。
多田純一さんが遭難するちょうど1か月前、埼玉県では山岳救助中の防災ヘリが墜落し、5人が死亡する事故が起きていました。
山岳救助のあり方について見直しを迫る機運が高まっていた時に、多田純一さんの奇跡の救助は大きな話題となりました。