落語家さんと言えば立川志の輔のようにサラリーマンから噺家に転身するなど、様々な背景を持った人がいますが、
瀧川鯉斗さんのプロフィールは落語界弘と言えど、今までに前例がないみたいですね。
もともと落語が好きだったわけでもなく、むしろ20歳ころまで落語の存在すら知らなかった瀧川鯉斗さんが、
どんなきっかけで落語と知り合ったのか?その前まではどんなことをしていたんでしょうか?
瀧川鯉斗wikiプロフィール
- 本名:小口直也(おぐちなおや)
- 生年月日:1984年1月25日
- 出身地:愛知県名古屋市天白区
- 小学校:名古屋市立八事東小学校
- 中学校:御幸山中学校(?)
- 出囃子:むつのはな
- 定紋:五瓜に唐花
- 階級:真打(2019年5月~)
- 所属:公益社団法人落語芸術協会
瀧川鯉斗の経歴
瀧川鯉斗の本名は小口直也で「嘘をつかない、真っ直ぐな人間に育ってほしい」
という両親が願いの込められた名前だそうで、一般家庭の次男として生まれています。
瀧川鯉斗は小学生のころから面白い話が得意だったとか、そうしたエピソードはなく、
その代わりに中学時代にはサッカー愛知県代表監督からスカウトを受けて、
県代表チームのトレーニング(トレセン)にも参加していたというエピソードがありました。
瀧川鯉斗さんの身長は180cmほどもあるそうなのでキーパーには欠かせない素質がありましたし、
運動神経も並はずれて高かったようなので、将来はJリーガーという道もあったのかもしれません。
ただ、中学生になってからロン毛に金髪というヘアスタイルでバイクにのめり込むようになり、友達づきあいもあって生活態度が乱れ始めます。
同じ中学のサッカー部の同期がサッカー推薦で高校進学が決まっていく中、
瀧川鯉斗さんは内申点の悪さからサッカー推薦は断念せざるを得ない状況で、
なおかつ志望校もスベってしまい、いわゆる地元の悪い奴ばっかりが行く高校に進学することに。
ただ、瀧川鯉斗さんが高校に通ったのは実質1日にも満たず、入学式早々、
瀧川鯉斗さんの武勇伝を聞きつけた先輩たちから目をつけられ「おめえ、生意気だ!」と
大人数に囲まれるケンカ騒ぎを起こし1度も授業を受けることなく退学。
高校を辞めてしまった瀧川鯉斗さんは、工事現場での仕事やサーフボードのリペア(修理)、
工場などで働きつつ好きなバイクを買っては名古屋市内を暴走する毎日。
瀧川鯉斗さんは所属する暴走族の十二代目総隊長に就任したそうですが、
ケンカが強かったとか統率力があったというわけではなく、本人が言うには、
- 運転テクニック
- 集会への参加頻度
- 気合い(ケンカを売られても怯まない)
- フカシ方が上手い
といった、違った要素が評価されたようです。
瀧川鯉斗さんの暴走族は「暴走」という名前はついているものの、
走るときのスピード時速10kmくらいと非常にゆっくり。
バイクの速さを追い求めるんじゃなくてエンジンの「ふかし」がうまいかうまくないかを
名古屋の他の暴走族のチームと競いあっていたそうです。
名古屋には当時、流星とかナイトフィーバーとかホワイトパンサーなどの暴走族もありましたが、
名古屋市内のチームは全員仲がよかったそうで、
瀧川鯉斗さんも自分からケンカを売ることはなかったそうです。
瀧川鯉斗の中学校や高校は?
瀧川鯉斗さんが通っていた中学校は、八事東小学校に通っていたことなど周辺情報を手掛かりに探すと愛知県名古屋市天白区にある「御幸山中学校」ではないかと思われます。
高校については現在調査中です。
瀧川鯉斗が落語を始めたきっかけは?
落語とはおよそ無縁の人生を歩んでいた瀧川鯉斗さんですが、
17歳の ある日、友達の家に溜まっていた悪い仲間たちを見て
ふと「このままじゃダメだ」と直感し、1週間後ぐらいには仲間に「俺、辞める」と。宣言。
「総長が言うんでしたら、わかりました」と仲間は受け入れてくれて、
年次が一つ下の後輩を次の総長に任命しその3日後には引退暴走。
走っている途中に、暴走仲間が「ご苦労さま」「お疲れさま」と口にしながら次々に花束を渡してきて、最後は花束が走っているような見た目に仕上がったそうです。
総長の肩書も、当時付き合っていた彼女も捨て
所持品は着替えと現金5~6万円くらいで18歳の時(2002年)に単身上京。
自分を変えたいと、もともと好きだった映画の影響で役者を目指すべく
『フロムエー』で求人募集していた新宿にあったレストラン「赤レンガ」でコックとして働くようになります。
そのレストランでは元芸能人のオーナーの計らいでアーティストによる生演奏などが行われていて、
落語会も年に2回ほど行われていたそうで、現在の師匠である瀧川鯉昇の落語独演会が開催されます。
演目の「芝浜」に初めて触れた瀧川鯉斗さんは一目で師匠の落語に惹きつけられ、打ち上げの席で弟子入りを直訴。
瀧川鯉昇師匠の「芝浜」には背中に背景が見えてくるような衝撃を受けたそうですが、
師匠には「お前落語知ってるのか? 新宿・浅草・池袋に寄席があるから一回見てこい」と言われ、
寄席に半年ほど通い続けても決意が変わらなかった瀧川鯉斗さんはもう一度師匠の元へ行き、晴れて弟子入りを果たします。
何度も落語に通ううちにある瀧川鯉斗さんは、いつも爆笑してしまう「時そば」を聞いたときに
噺家によって落語が変わり爆笑できないこともあるなど、落語の奥深さを知る良い経験となりましたが、
師匠の瀧川鯉昇さんから入門に当たって「瀧川一門絶対の掟、盗み・暴力は一発破門」という2つの約束を言い渡されます。
現在もかたくなに守り続けているそうですが、落語家ではなく一般的な社会人として常識といえるのかもしれませんが。
その後、平成17年3月に前座として楽屋入りを果たすと芸名「瀧川鯉斗」を名乗り落語家としての活動開始。
平成21年4月に二ツ目に昇進すると令和元年には真打昇進を果たしました。
瀧川鯉斗の暴走族は天白スペクター
高校の入学式で先輩50人と喧嘩して退学した瀧川鯉斗さんはその後、
対立していた三河地方の暴走族の総長と尾張地方を代表してタイマン勝負に勝利
イケメン、182cmの高身長でその上喧嘩が強いということで知れ渡っていた瀧川鯉斗は、
バレンタインにはチョコを持った女子高生が突進してきてバイクはチョコだらけの有名人。
暴走族時代の瀧川鯉斗さんはマフラーも楽器みたいに高音が出るものがあったり、低音が出るものがあって、
「コール」と呼ばれるマフラー音を競い合う日々に明け暮れていました。
天白スペクター(スペクターの名古屋支部)で多い時は300人の仲間を連れて名古屋市内を暴走し、
ポジションは最後尾を走り、警察車両を阻止する役割の「けつまく」です。
そのため、名古屋ではもう警察の常連となっていた警察の人も
「直也、お前、この野郎。止まらないとパクるぞ」って本名で脅しをかけられていたそうです。
名古屋の尾頭橋(おとうばし)に12時集合が仲間の暗黙の了解だったそうですが、
暴走族をしていた芸能人は意外とたくさんいます。
キャイーンのウドちゃんもチームの特攻隊長していたと言われ、
品川庄司の品川祐やも暴走族だったと言われています。
- ヒロミ(スペクター)
- パンクブーブー黒瀬(悪死魔副総長)
- 宇梶剛士(元ブラックエンペラーの総長)
- バッドボーイズ・佐田正樹(福岡連合の二代目総長)
などなどがいますね。
瀧川鯉斗の暴走族当時のバイクは?
Kawasaki【ゼファー】
HONDA【CB SUPER FOUR】
YAMAHA【XJR】
瀧川鯉斗の芸名の由来は?
「新聞記事」という15分くらいの噺を覚えるのに、半年くらいかかったという瀧川鯉斗さん。
前座に昇進して晴れて本名の小口直也ではなく瀧川鯉斗という芸名を名乗るようになりましたが、
どんな由来で瀧川鯉斗になったのかというと、名付け親はもちろん師匠の瀧川鯉昇です。
ある日、師匠に呼ばれると、2つ名前が書いてあるメモを見せられて
「どっちが良い?」と問われた瀧川鯉斗さん。
その紙には、
鯉鯉
斗茂
と書かれていて、
「鯉鯉?それとも斗茂?」と読んでしまい、
師匠の芸名に「鯉」が入っていますからもちろん「鯉鯉がいいです!」と返事をすると、
師匠はにっこり笑って「そうか! 鯉茂(こいも)か! わかった!」と。
「鯉鯉」を選んだはずなのに、「鯉茂」なんて言われた瀧川鯉斗さんは思わず、
「師匠どうゆう意味ですか?」と質問をすると、
「あっ、お前、日本語の読み方を知らないか? 日本語は、縦に読むんだ」
日本語にはそんなルールがあるんだと初めて知ったそうです。(もちろんネタだと思います)
ちなみに、瀧川鯉斗さんと同じく若手で注目されている落語家さんには、「笑点」で司会を務めている春風亭昇太さんの弟子で、同じくBS日テレ「笑点特大号」の若手大喜利のメンバーとして活躍している春風亭昇也さんがいますね。