映画「マトリックス」で救世主とされるネオは最後、どうなったんでしょうか?
預言者者がベンチに座っている世界はマトリックスだったんでしょうか?
マトリックスでネオ最後・その後は?正体は救世主じゃない?死んだ?生き返る?
まず映画『マトリックス』の真の主人公は救世主ネオではなく、仮想世界マトリックスの危機回避を描いた映画です。
ネオもザイオンもメロビンジアンもキー・メーカーもオラクルも、ぜんぶマシンが作りだした危機回避システムです。
マトリックスはしょせん人間の生み出したプログラムに過ぎず、わずかなバグででシステム全体がクラッシュしてしまう可能性があります。
それを避けるためにシステムに多様性を持たせた結果、マシンは仮想世界の外側で自分たちに反乱する人間を作り、仮想世界では何でもできる救世主(空も飛べる!)を用意させるようになります。
覚醒したネオは救世主となり、過去にも現れた救世主と同じくエージェントたち(スミスたち)を打ち破ったものの、最後はマトリックスをバージョンアップさせるためにマトリックス内のネオの精神はスミスと同化した時に周りのスミスと共に消滅したと思われます。
映画「マトリックス」シリーズというのは実は敵も味方もなく、大きなプログラムの中で踊らされているちょっとしたプログラムの挙動を描いたストーリーにすぎませんでした。
予言者がベンチに座っている世界はマトリックスの中で、太陽を見て『あなたがやったの?』『うん』という会話するシーンは、サティが意図的に日の出を見せたようです。
最後に予言者と話していた白いおじさんは、前作の映画「マトリックス リローデッド」でも登場した、マトリックスの設計者アーキテクトです。
映画マトリックス1作目の序盤、エージェントに捕まったネオのいる部屋をいくつものモニターが映しているシーンもアーキテクトの存在を示唆していました。
なぜスミスはマトリックスの脅威になったのかというと、「人類のコントロール」を目的としているマトリクスですがエージェントスミスはエージェントである事を止めてマトリクス内のプログラムを上書きして自分で埋め尽くす事を始めたので、マトリクスとってはただ単に機能しなくなったプログラム(エージェントはマトリクス内のワクチンプログラムです)というだけでなく、マトリクスの目的のみならずマトリクスそのものを破壊しようとする存在になっています
ちなみに、エージェントから外れたスミスは確かにアノマリーとなりました。
ただマトリクス内で変則的な動きをしてマトリクスの秩序はマトリクスそのものを破壊するような存在かもしれませんが、エージェントそのものは前述の通りにマトリクス内の秩序を守るワクチンプログラムであり、アノマリーではありません
泥の中に預言者が倒れていましたが、場所がネオとスミスが最後に戦っていた場所のようなので、ネオと戦っていたスミスが預言者の体(プログラム)を乗っ取った姿だと思われます。
マシンシティで会ったデウス・エクス・マキナの削除命令を受け入れたネオは、スミスと同化したまま爆死していますが、ネオはデウス・エクス・マキナの前でマトリクスに正規接続しているので現実世界で発令されたデウス・エクス・マキナの削除命令がネオを通じて、ネオを上書きしたスミスにも適応されました
ちなみに、その後のシーンの詳細は作中でははっきりとは描写されていませんが、スミスが消滅する前に現実世界でデウスエクスマキナ(スミスとの最終決戦前にネオが話していたマシン軍のボス)からネオの肉体につながっているコードを伝って小さな光が流れていたことから、マシン側の制御を受け付けない存在となっていたスミスが、デウスと直結してマトリックスに入っていたネオがスミスに同化させられたことでデウスから干渉可能となり、デウスがネオの肉体を通じてスミスを破壊したのではないかとの見方があります。
マトリックス内でアバターが消滅したので、現実世界のネオの肉体はマシンシティに送られ、マトリックスで活動している人々の養分にされたのかもしれません。
あるいは、現実世界にまで及ぶ脅威となっていたスミス打倒のきっかけを作り交渉を果たした相手として何か別の処遇になったのかもしれません。
ちなみに、映画3部作の続編にあたるゲーム、マトリックスオンラインでは、マトリックスのところどころにネオのデータの一部が存在しているそうです。
マトリックスで最後にネオがスミスに変化した後、決着場所に残った遺体が預言者になったのは、最終決戦で終始ネオと戦っていたのは預言者が上書きされたスミスだったということだと思われます。
現実世界でネオに接続しマトリックスに送っていたデウスが、スミスにされたネオを破壊したことにより全てのスミスも消滅し、安否不明のネオを除いてスミスに上書きされていた者は全員元に戻りました。
決着前のスミスが、預言者がネオに言ったものと同じ「始まりがあるものには終わりがある」と言っていたのもその伏線ということでしょうね。