徳永英明のレイニーブルー誕生秘話は軽井沢でアンビリバボー

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ボーカリスト・徳永英明さんの名曲の一つといえば「レイニーブルー(Rainy Blue)」

今や誰もが1度は耳にしたことがあるんじゃないかというほどの有名な曲ですが、徳永英明のレイニーブルーには誕生秘話がありました。

德永英明 – レイニーブルー
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徳永英明のレイニーブルー誕生秘話は軽井沢でアンビリバボー

徳永英明さんは歌手デビューを目指して高校卒業後、19歳の時に、アルバイトしながらミュージシャンを目指すため専門学校を中退し、兵庫県伊丹市から上京。

アマチュア時代、父親とは25歳まで歌手としての目が出なければ「自分と同じ保険の営業マンになれ」という約束通り就職することになっていましたが、見事に24歳10か月というギリギリでデビューを飾ります。

上京後、徳永英明さんはオーディション番組「スター誕生!」に出場。

山下達郎さんの「RIDE ON TIME」を熱唱するも残念ながらスカウトの声はかからず合格者は松本明子さんでした。

※当時、番組制作に大きな権限を持っていた作詞家の阿久悠さんが「女性アイドルだけを育てる」という方針だったとも言われています。

失意の中、徳永英明さんは知人を通じて「レコード会社が、ツインボーカルのバンドを探している。バンドメンバー集めて軽井沢で合宿して、売り込もう。」と誘われます。

実はこれが真っ赤な嘘で、軽井沢のとある喫茶店でバイトが足りないことから、とにかく誰でも良いから働いてくれる人を探していただけでした。

当時の軽井沢は、ミュージシャンや役者など夢を追う人達が、観光シーズンに資金を貯める為にあつまっていたと言われています。

しかし、お金もなかったので、渋々バイトをはじめる事にるのですが、徳永英明さんにとっては人生を180度変える出会いが待っていました。

そのバイト先で偶然知り合ったのが後に『レイニーブルー』の作詞に名を連ねる「大木誠」さん。

意気投合すると、音楽を一緒に作リ始めることになり共にバンドを組むことに。

楽曲が生まれる過程で彼の存在はとても大きなものとなっていきます。

夏が終わり東京に戻ってからも、二人は共同作業をしていますが、その間、徳永英明さんはいったん、音楽から離れてアサリ(の珍味?)を売る仕事をしていたこともあるそうです。

でも音楽に対する情熱は冷めず、大木さんとの音楽活動を再開。

当時、関内駅のヤマギワ電器店のスタジオで、デモテープを主に作っていたそうです。

作ったデモテープは業界関係者が溢れてた喫茶店に勤めて配る日々。

その間、テレビで活躍できる人材を育成するTBS緑山塾にも身を置いていたこともあるそうですが、それからしばらくしてようやく「第2回マリンブルー音楽祭」でグランプリを獲得。

その半年後の1986年1月、徳永英明さんは、アマチュア時代から歌い続けてきた曲「レイニーブルー」でデビューを果たしたのでした。

そして徳永英明の名が世に知れ渡ったのが、CMソングとしてタイアップされたこともあり、デビュー後初のヒットソングとなった4枚目のシングル『輝きながら…』です。

德永英明 – 輝きながら・・・
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