槙野万太郎のモデル・牧野富太郎の生い立ち・生涯は?

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槙野万太郎はNHK朝ドラ「らんまん」の主人公。

植物学者の牧野富太郎さんをモデルとしていますが、生い立ち・生涯は?家族は?

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槙野万太郎(牧野富太郎がモデル)の生い立ち

槙野万太郎のモデル・牧野富太郎が誕生したのは土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)、アメリカの使節ペリー来航の前年、1862(文久2)年4月24日。

近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれ幼名を「成太郎(せいたろう)」

※幼名については誠太郎と言われていましたが、没後成太郎であったことが判明。

何不自由なく育った富太郎ですが、3歳で父佐平、5歳で母久壽(くす)が病死し、6歳の時には祖父小左衛門までも亡くします。6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名

幼いころ体の弱かった富太郎は、祖母・浪子によって大切に育てられました。

10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学びます。

名教館は学制改革により校舎はそのままに佐川小学校となり、漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだそうですが、2年で中退。

小学校を中退した理由として「造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったから」だとしています。

酒屋は祖母と番頭に任せ、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになるものの、佐川で勉強するだけでは物足リなくなった富太郎は、17歳で現在の高知市へ行き高知中学校の教員永沼小一郎(ながぬまこいちろう)に出会います。

そこで新しい科学としての植物学を教えられ意欲 に燃えた富太郎は、第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を買うために明治14(1881)年、19歳の時に初めて上京します。

槙野万太郎(牧野富太郎がモデル)の生涯は?

東京では博物局の田中芳男(たなかよしお)と小野職怒(おのもとよし)を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりしました。

本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)、22歳の時に再び上京すると1884(明治17)年に東京帝国大学(現在の東京大学)理学部植物学教室へ出入りするようになります。

以後、精力的に研究発表を重ね、1889年27歳の頃には日本人が初めて学名を付けた日本人初の偉業となる土佐で発見した新種に「ヤマトグサ」と名付け、「植物学雑誌」第3巻で発表。

31歳で東京大学で助手として働き始めます。

『日本植物志図篇』(1889)や『大日本植物志』(1900)などの刊行にたずさわり、1940(昭和15)年に刊行された『牧野日本植物図鑑』は、現在まで改訂を重ね、植物図鑑として広く親しまれています。

1953年東京都名誉都民。1957年文化勲章受章。

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