巴御前の子孫・子供は?木曽義仲と関係は?鎌倉殿の13人

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巴御前は鎌倉時代初期(平安時代末期)に活躍した女性

木曾義仲と行動を共にした女武者として知られていますが、巴御前に子供はいたんでしょうか?

巴御前と木曾義仲のあいだに子供はいた?子孫は?

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巴御前の子孫・子供は?木曽義仲と関係は?鎌倉殿の13人

巴御前は女でありながら甲冑をまとい戦場に立ち、並の男では歯が立たなかったという強さだったといわれます。

まず木曽義仲と巴御前の関係はお妾さん(側室)です。

幼馴染でもあったものの、身分が違うので正妻にはなれませんでした。

義仲の正妻は名前不明で妾には巴御前の他に、山吹、葵、唐糸、伊子がいたとされます。

義仲の子は義高(義隆)の他に、義重、義基、義宗、鞠子がいたとされますが、実在したかどうかは現在もなお疑問視されています。

そもそも、巴御前は正式な史書のたぐいにはほとんど登場しないため実在したかどうかはなぞとされています。

巴御前は、武蔵国(埼玉県嵐山町)で生まれ父を殺された源義仲(木曽次郎義仲)と木曽で幼少を共に過ごし成人して愛し合ったとされます。

1184年宇治川の戦いで源範頼(のりより)・源義経(よしつね)軍に攻められ義仲が戦死するまでずっと一緒だったと言い伝えられていますが、この時点で巴御前に子供がいたことを示す史料はないようです。

木曽義仲は最後の際、巴やその姉妹ではなく無二の親友であり、巴の兄である今井兼平との死を選びました。

巴御前は義仲から死ぬ事はまかりならんといって戦線離脱させられた

よって、巴と義仲の間に子供がいたわけではないものの、やがて和田義盛と結婚して子(朝比奈義秀)を産んだという伝承が残っているようです。

ちなみに、小説『君の名残りを』においては、義仲の子・義高が巴御前との間に生まれた子として描かれています。

ただ、巴御前の最後に付いては諸説あり他にも次のようなものがあります。

○木曾義仲の墓がある義仲寺で尼となり、余生をすごした。

○木曾に逃れて、義仲の菩提を弔って暮らした。

○北陸に落ち延びて猟師の妻となり暮らした

○木曽に戻り義仲遺児を養育しこれが後の木曽氏の祖になったという説(義仲の遺児を出産したとも言う)

その後の伝説伝承の共通点は長生きしたという事。

ちなみに、和田義盛と結婚したという説に関しては和田合戦の時、義秀の年齢が38歳なので、歳が合いません(38年前では、源義仲が存命)なのでこの話は、創作された可能性が高いとされています。

巴御前が、女武将と言うのも創作性が強く、建仁乱(1201年)の時、幕府軍を悩ませた、弓の名手「坂額御前」をモデルにした様です。)鎌倉方に捕らえられ、許されてから、木曽に帰り、静かに人生を過ごしたのでは、ないでしょうか。彼女の墓と言われる物が、(神)横須賀市、(長)木曽町、(新)上越市にあります。

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