中江滋樹は投資ジャーナルを発刊し「兜町の風雲児」と呼ばれ、巨万の富を築いた有名相場師。
しかし巨額の詐欺事件を起こして逮捕されると表舞台からは姿を消した中江滋樹の現在は?
■中江滋樹(なかえしげき)プロフィール
生年月日:1954年1月31日
出身地:滋賀県近江八幡市
出身高校:滋賀県立彦根東高校
出身大学:神戸大学経営学部(中退)
中江滋樹は投資ジャーナルやアイドル彼女(倉田まり子)で話題
中江滋樹は父親が証券会社に勤務していた影響からか小学生で株投資を始めると滋賀県立彦根東高等学校時代から名古屋の投資顧問会社「三愛経済研究所」(犬塚芳嗣所長)の会員となります。
高校時代から優秀だったようで、高校3年生のときは1972年(昭和47年)に始まったニクソンショックの大相場に便乗して弱電メーカーを空売りし数百万円を得るなど、教師にも株のアドバイスをしていたそうです。
20代で投資ジャーナル社を1978年(昭和53年)に設立。
月刊投資家などを初めとした証券関連雑誌を発行し東京・兜町の風雲児ともてはやされた希代の相場師とうたわれるようになります。
「絶対に儲かる」株式売買のテクニックを披露するようになったことから人脈は政財界、スポーツ芸能界まで広がると、2割のもうけを10回続ければ元手が2倍になるという「ツーバイツー理論」を掲げ、会員と巨額の金を集めます。
1985年にはアイドルの倉田まり子とのツーショット写真が写真週刊誌「FRIDAY」の創刊号に掲載され、倉田が芸能界引退へと追い込まれる引き金ともなりました。
ただその後は株の不正売買である「投資ジャーナル事件」で逮捕。
6年の実刑を受け、’92年に仮出所した後は、暴力団関係のマネーで再起を図るも、海外逃亡しています。
「やがて、10人以上のヤクザの親分から計数十億もの借金を作ってしまったんです。思い悩んだ挙げ句、どうせ死ぬなら手元にあるカネを使い切ってから死のうとハワイに逃げました。日本に帰ってきた後も結局、ヤクザの親分とは会っていません。40億~50億円を作ったら持って行こうかとも思っているけれど。
いま、おカネはほとんどありません。私の人生は相場がすべてですから、相場の研究をしているときが最も楽しい。そりゃ、おカネがあって愛人がいたほうが楽しいけど、重要なのは相場なんです。いまも少しだけ投資をしていますが、元金はとても小さい。ただ、投資金額の2~3倍くらいにはなっています」
https://friday.kodansha.co.jp/article/99406
中江滋樹の手法は?
中江滋樹は「兜町の風雲児 – 中江滋樹 最後の告白」という著書の中で、相場のコツとして次の記述を残しています。
「相場のコツは、勇気を持って売れるかどうか。上昇の場面で買うのは誰でも出来るが、その場合も、まだ上がるだろうと我慢しないで売ること。売るタイミングを読まないと相場で勝つことはできない。」
中江滋樹の現在|息子は?
表舞台から中江滋樹は2012年には「今、おカネはほとんどありません」とメディアにコメントしています。
日刊ゲンダイで自身の事業を回顧する連載を開始していますが中途半端な状態で終わり、晩年は都内近郊を転々としています。
そして2012年、持ち物は衣服だけで、東京都葛飾区南水元の家賃が月4万8000円アパートにたどり着き同僚らがじゅうたんやトースターなど、生活に必要なものを提供してもらっています。
2020年正月には体調の悪化から、おむつを着用し、血圧が190もあった
2020年2月20日、一人暮らしの自宅アパートが火事となり、焼け跡から遺体が発見されます。
当初は手がかりとなるのがアパートの契約者情報のみで身元の確認が取れませんでした。
中江滋樹華道かは「可能性がある」としか表現できず、本人と”断定”することができない状況だったものの、その後、2月25日になって警視庁亀有警察署は発見された遺体が中江本人であることが確認されたと発表されました。
66歳没。
当時は中江滋樹が詐欺罪での前科があることから、「身代わり説」や「暗殺説」や「陰謀説」までもが浮上していました。
■中江滋樹の略年表
引用:https://ameblo.jp/nakae-shigeki/entry-11582526993.html
1954年1月 滋賀県近江八幡市に生まれる。父は証券会社の営業マン、兄の克己ものちに証券会社に勤務。中江自身も小学校5年生にしてすでに日活株を1000株買い、1万円を稼いでいた。
1970年 高校2年生で、すでに信用取引を始める。
1972年 彦根東高校を卒業後、あまりに相場で儲かるので、大学進学がアホらしくなり、家出をして、名古屋市の証券会社で株価の推移を黒板に書く「黒板書き」と呼ばれるアルバイトを始める。
1973年 高校生の時から三愛経済研究所(名古屋)の会員であった中江は、三愛経済にちょくちょく顔を出していた。そのうちに、三愛経済の犬塚所長(当時一世を風靡)に、相場観の才能を見出され入所。
朝から晩まで、チャートの研究をするとともにカギ足の秘法を伝授される。
1976年 京都で、投資コンサルタント2×2(ツーバイツー)を創業。それと共に、将来の出版物発行を夢見て、ガリ版刷りで、『月刊投資家』を始める。
1978年9月 東京・兜町に投資ジャーナルを設立。印刷会社に製造、製本をしてもらっての本格的『月刊投資家』第1号を発行。
1979年4月 9日付の朝日新聞朝刊”マネー”欄に中江の記事が掲載される。「弱冠25歳だが、大阪・北浜はもとより東京・兜町でも最近、相場のリード役を果たし、その筋では教祖的存在だ」「二十数人の企業で顧客約3千人、動員できる資金は数百億円」などと報じられ、全国レベルで中江の名が知れ渡る。
1981年2月 誠備投資顧問室を主宰し4千人からなる投資家を動員、数々の仕手戦を演じた加藤あきらが脱税で逮捕される。約2年半の取り調べを経て’83年8月、保釈金2億円で保釈。保釈で出てきた誠備の加藤氏に、現金1億円を保釈祝いとして渡す。
1982年 袋とじの『週刊投資家』を定価1万円で創刊。マスコミはこぞって”証券版ビニ本”とこれを取り上げた。その頃、投資ジャーナルグループは、月刊誌、週刊誌を含め『兜町大明神』『百億の会』『覆面太郎の百人会』など30を超える。投資顧問業のシェア70% 中江の日々の売買株数(今でいうディーリング)は、当時の証券会社の売買株数(東証)6位~7位に毎日肩を並べていた。しかも一人だけでそれをやってのけた。
1983年1月 のちに写真週刊誌に掲載されて物議を醸すことになる歌手・倉田まり子と赤坂の料亭で初めて逢う。
この頃、田中角栄、中曽根康弘、竹下登など大物政治家に太いパイプを持つ三浦甲子二氏(テレビ朝日の専務で、テレ朝の天皇とまで言われた)の知遇を得ることにより、中江の政界人脈が一気に広がった。『週刊投資家』1周年を記念して行われたパーティーでは、竹下昇、宮沢喜一、河本敏夫といった大物政治家からの祝札が会場に並び、自民党最高顧問・安井謙(当時)が祝杯の音頭を取った。
1983年8月 青木建設の仕手戦で中江の力を見せつける。当時200円台そこそこの株価は、9月中旬には1千100円を超える。この間中江はテレビスポットまで流して狂ったように青木建設の宣伝をしまくった。その結果1か月余りで85億円の金が流れ込んだ。