徳川綱吉の側室は何人だったのでしょうか?
本当に将軍・徳川綱吉は家臣の妻にも手出したんでしょうか?
徳川綱吉の側室は何人?安子?染子?
徳川家5代目将軍・綱吉は3代将軍家光と側室・お玉の方(桂昌院)の子としてうまれる。
正室・鷹司信子の他に側室は少なくとも
・瑞春院(お伝)
・寿光院
・清心院
の3人がいて、綱吉の子(鶴姫、徳松)を産んだのは、瑞春院です。
綱吉の御台所(正室)である公家出身の鷹司信子(たかつかさのぶこ)は子宝に恵まれる事がなく、綱吉からも冷遇されていました。
また綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)は、自分が元は八百屋の娘である経緯から、公家のお姫様育ちの信子を意味嫌い、見えないところで嫁vs姑の対立が起こっていました。
そこへ今度は綱吉がまだ13歳のお伝を側室(妾)に迎えます。
お伝は桂昌院と同じく身分の低い黒鍬者(雑用係)の娘だった為、桂昌院にも気に入られ、やがて長女・鶴姫、長男・徳松を生み、お世継ぎの生母として一段と高い地位を築き始めます。
結果、子のない信子は桂昌院寄りのお伝とも対立し、信子vs桂昌院・お伝という構図が出来上がってしまったのです。
やがて綱吉は五代将軍に就任して、信子、桂昌院、お伝は江戸城大奥へ入ります。
本来なら将軍の正室・御台所(みだいどころ)となった信子が大奥のトップになるのですが、姑の桂昌院は信子よりも高い権力を誇って大奥を統括し始めました。
また側室・お伝も世継ぎの生母として高い権力を手にしました。が、間もなく長男・徳松は早世し、お伝は徐々に権勢を失っていきます…。
何とか巻き返しを図りたい信子は、桂昌院やお伝に対抗する女性を京都から大奥に呼び寄せます。
その女性が才色兼備の右衛門佐(えもんのすけ)であり、右衛門佐はやがて大奥総取締役となって、桂昌院に代わって大奥を統括し始めました。
負けられない桂昌院サイドは、右衛門佐に対抗する女性・大典侍(おおすけ)を京都から呼び寄せ、綱吉の側室とします。
すると今度は信子サイドが京都から新典侍(しんすけ)を呼んで綱吉の側室するという意地のぶつかり合いをしていたのです。
結果的には桂昌院や綱吉の死去によって争いは自然終焉を迎えました。
他にも染子も綱吉の側室であり、後に柳沢吉保へ下げ渡されたとなっていますが、元は柳沢吉保の妾であり、彼女を積極的に綱吉に献上したともなっています。どちらが本当でしょうね。
吉保の嫡男・吉里は、本当は綱吉の子ではないかという話が江戸で噂になったともいわれています。
また臣下だった牧野成貞の妻・阿久里に手を出しただけでなく、その娘安子も無理やり自分のものとした。安子には婿の成時がいて彼は憤激のあまり割腹自殺を遂げている。
阿久里がお手つきになったのは1672年ごろで、綱吉は当時まだ館林藩主。また、阿久里は1648年生まれなので綱吉とは2つしか違わない。
牧野成貞と阿久里の間には、松(1667生)、安(1669生)、亀(1671生)の三姉妹がいた。ドラマ「大奥」は元禄元年(1688)という設定なので、1687年に死んでいる松は登場しなくて当然だが、亀もスルーするっぽいな。設定変更は阿久里のお手つき時期だけではない。安(ドラマでは安子)の夫、成時(初名成任、ドラマでは成住)もちょっと違う。入り婿である点はよいが、彼も1687年に死んでいるのである。安にお手がついたことを知り自殺したのだという。すると、元禄元年の時点ですでに安子はお手つきだったということに……。
ちなみに、大奥には「開かずの間」というのがあって、そこで綱吉の正室・信子(鷹司氏)が綱吉を刺し、自分も自害した部屋だとされたそうです。
綱吉が柳沢吉里を将軍にしようとしたのを「将軍として悪評が残る。」と夫人が独断でしたという。
その後、大奥ではその部屋の前で「喪服を着た女中」を見ると将軍家に不幸があるといわれたという。
実際に明治維新で江戸城開城した折、官軍がその部屋を開けたそうです。
すると、部屋には見事な狩野派のふすま絵があってきれいだったといい、綱吉刺殺は俗説とされています。
綱吉公は、晩年、甲府の綱豊を養子にし、家宣(いえのぶ)とします。
死後、その墓は、上野寛永寺に設けられました。
8代将軍・吉宗は、かつて綱吉にかわいがられ、家宣の文治政治に批判的でした。
かれが行った享保の改革の下地は、綱吉の政策にあったとする見かたもあります。
吉宗は、遺言で「わが墓は、上野寛永寺にある常憲院さま(綱吉公)のそばに設けよ。」といいます。
吉宗の墓は綱吉の墓と同じところにあります。