石川啄木の短歌
「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」
の意味は?
働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見る 意味は?
「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」とは石川啄木の「一握の砂」の「我を愛する歌」の短歌の一つ。
第4句の「楽にならざり」で句切れます。そこに大きな休止があります。その休止の中に作者の深いため息が感じられます。
物を作る手、働く手、生活の糧を得る手、遊ぶ手、文字を書く手、ご飯を作る手、赤ちゃんを抱く手、水仕事をする手・・・。
「手」はさまざまな人々の、さまざまな人生や生活を無言で語ります。
金持ちは働かないでいても裕福な生活ができる、貧困の自分はいくら働いてもそこから抜け出すことができない。働いても、働いてもいっこうに生活が楽にならない作者は、社会の矛盾に次第に疑問を抱きはじめます。
つまり、「手」は自己の人生や生活の象徴だから、ではないでしょうか。
もしくは、働いた成果として生活がちゃんと楽になるには、どんな「手」(方法・手段)がありうるのか、どんな「手」(方法・手段)を講じれば良いのかを、じっと手を見ながら考えを巡らせているのかもしれません。
他にもお金や幸せをつかむ事ができず、手から滑り落ちていくような気がしたからではないでしょうか。
ちなみに、蛇足です。「働けど 働けど・・・」と言う割に、石川啄木は働くのが嫌いで遊び好きだったと言われています。
かしその実像は、嘘つきで怠け者、金と女にだらしなく、あらゆる友人・知人から愛想を尽かされた生活破綻者、と酷評されることもあります。特に金銭面では病的なまでの浪費家で、死後発見された啄木自筆のメモによれば、借金の総額は1300円以上(現在の価値で1000万円以上)に及びました。では、借金まみれの中、啄木がどのように暮らしを成り立たせていたのかというと、学生時代の先輩、金田一京助の助けがあったのです。
啄木は故郷の渋民村でも困窮した生活を送ることとなります。
結婚式の少し前、住職だった父が金銭問題などで寺を退去したため、まだ19歳の啄木の双肩に、父母と妹の生活までのしかかることとなります。渋民尋常高等小学校の代用教員を勤めて一家を養いましたが、薄給のため苦しい生活を送ります。生活と創作の行き詰まりを打開すべく、妻子を妻の実家に預けて北海道へ渡るなどしましたが、一向に展望が開けないため、三たび東京へ出ることを決意しました。明治41年4月、啄木は東京本郷の下宿屋・赤心館を訪ね、中学校講師を勤めながら言語学者を目指していた京助と再会します。同じ赤心館に部屋を借りた啄木はここで数々の傑作を生み出しましたが、生活力の欠如は変わることなく、生活費も下宿代もすべて京助頼みでした。しかし、京助も大学を出たての講師の給料では2人分の生活費をまかなうことはできず、自分の服を質屋に入れてまで啄木の下宿代を工面します。
どうして京助はここまでして啄木の面倒を見たのでしょうか?
京助自身の言によれば、啄木は最初から嘘をつこうとか、借金を踏み倒そうと思っているわけではない。自分ではできる、返せると思っていたのに結果としてできなかっただけなのだ。だから何とか助けてあげたいと思っていた、とのことです。
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