片桐清二/機長の現在は?日本航空350便墜落事故

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日本航空350便墜落事故とは日本航空のダグラス DC-8-61型機が羽田空港沖に墜落した事故。

墜落により乗客24名が死亡、乗員乗客95名が重傷を負い、54名が軽傷を負っていますが片桐清二/機長の現在は?

逆噴射装置を作動・・・羽田沖墜落事故から40年 慰霊式(2022年2月9日)
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日本航空350便墜落事故の経緯|ボイスレコーダー

1982 年 2 月 8 日、JAL 350 便(福岡7:25発→羽田8:55着予定)が東京の羽田空港へ着陸態勢に入ったとき、搭乗した 166 人の乗客は、東京湾の穏やかな海の上に弧を描く鮮やかな青空を眺めていました。これ以上完璧な飛行条件を想像するのは困難でした。

JAL 350 便はマクドネル ダグラス DC-8 で、ボーイング 707 に似た 4 エンジンのナローボディ旅客機で、166 人の乗客と 8 人の乗員を乗せていました。

片桐清二機長そして副操縦士、航空機関士の操縦する350便は、午前7時34分に福岡を出発します。

飛行機は東京国際空港(羽田)C滑走路(当時)へ向かいますが、最終進入をしていた日本航空350便は突如として滑走路手前で急降下。

滑走路手前510m付近で前脚から海面に着水すると、そのまま機体を立て直せず滑走路手前360m付近の海上に墜落します。

その間、副操縦士 が発した言葉がボイスレコーダーに残されています。

「キャプテン(機長)!やめてください!」

日本航空350便墜落事故の原因は片桐清二/機長?

日本航空350便墜落事故は東京の羽田空港のすぐ近くで発生したため、500 人以上の救助隊員がすぐに現場に到着しました。この迅速な対応が、墜落時の死者数が比較的少なかった理由の 1 つとして認められています。

それでも、火災や爆発のリスクを減らすために飛行機から残りの燃料を汲み出す必要があるために遅延が発生したため、完全な避難には8時間かかりました。救助活動を妨げるもう 1 つの要因は、船で乗客を上陸させる必要があることでした。

事故機のスロットルは第1エンジン、第2エンジン、第3エンジンが出力全開位置に、第4エンジンがアイドル位置にあった。さらに第4エンジンのリバース・レバーは作動位置にあり、右へ90度折れ曲がっていた。スポイラーはアーム位置にあり、フラップは50度まで展開されていた。また、自動操縦のスイッチはオフの状態だった

報告書では、着陸進入中の低高度で機長が操縦桿を押し、逆噴射装置を作動させたことが原因と認められた。また、一連の機長の行動は精神変調によるものだと認められた

片桐清二/機長の現在は?日本航空350便墜落事故

片桐清二は、1946 年 6 月 10 日大分県別府市の裕福な家庭に生まれました。

名門九州大学への進学も容易だったと言われる優秀な高校生。代わりに、片桐は岡山大学理学部数学科で勉強することを選びました。

岡山大学で 2 年間過ごした後、片桐は日本の民間航空専門学校に転校し、そこで商用パイロットの免許を取得しました。

片桐はすぐに日本航空のパイロットとなりますが、裁判中の証言によると、片桐は1976年頃から精神疾患の兆候を示し始めていたようです。

誰かが自分の電話を盗聴していると確信したため、片桐さんの家に警察が呼ばれたことがあります。

1980年11月、片桐は精神状態の悪化に対処するために3週間の休暇を与えられた. うつ病と胃炎に苦しんでいると診断された片桐は、9か月間活動を停止することになった. 離職後、片桐は飛行に適していると判断され、3 か月間副操縦士に復職し、1981 年末に再び操縦士に戻った.

片桐清二さんは最終的に業務上過失致死罪で逮捕された。

彼の裁判では、片桐清二さんが自殺未遂で故意に飛行機を墜落させたことが判明したが、彼は精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され無罪と宣言された.

心神喪失の状態にあったとして東京地方検察庁により不起訴処分で釈放されると精神衛生法(現:精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)に基づき、東京都立松沢病院に措置入院となり、約1年後にJALを解雇された。

数年間の治療の後、片桐清二さんは危険ではないと宣言され退院したようで、現在、生きていれば70才すぎの年金生活者です。

訃報もありませんので、今は静かに暮らしていると思います。

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