上岡龍太郎さんは「横山パンチ」名義の「漫画トリオ」から2000年まで芸能界の第一戦で活躍したタレント。
人気の絶頂で引退した上岡龍太郎さんの気になるプロフィールをまとめています。
上岡龍太郎wikiプロフィール
名前:上岡龍太郎
本名: 小林龍太郎
生年月日: 1942年3月20日
出身地: 京都府京都市左京区
血液型: AB型
身長: 165cm
小学校:京都市立第四錦林小学校
出身中学:京都市立近衛中学校
出身高校:京都西高校(現在の京都外大西高等学校)
上岡龍太郎の経歴
上岡龍太郎さんは1960年に横山ノックさんに誘われて、青芝フックと共に「横山パンチ」名義で「漫画トリオ」を結成。
漫画トリオは時事ネタをからめた切れ味と独特のリズム漫才で旋風を巻き起こします。
1968年に漫画トリオが活動を停止すると、その後は「上岡龍太郎」に改名。
1980年代には東京に進出し、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』、1988年からは、「探偵ナイトスクープ」の初代MCとして番組の顔に。
以前から「芸能生活40周年を迎える2000年の春になったら完全に隠居する」と言い続け、本当に2000年4月に芸能界を引退すると個人事務所の上岡プロモーションも引退と同時に解散。
引退後の生活は大好きなゴルフなどを楽しんでいたそうです。
ちなみに「探偵ナイトスクープ」の「3代目局長」(2代目は西田敏行)となったダウンタウン・松本人志さんは笑福亭鶴瓶と酒を飲んでいた際に「あの人が『電話するわ』って言って、上岡さんと電話で話したのよ」と告白しています。
上岡龍太郎の結婚した嫁は?
妻は漫画トリオ時代からのファンである友岐子さん。
上岡龍太郎さんに集まってきたファンの中から感ずるところがあり、上岡龍太郎さんのほうから「君は将来、ぼくと結婚する」と口説き続けて1969年の27歳のときに結婚。
結婚後は、上岡が多忙を極めていた1979年度の上半期に、『奥さまリビング』(当時関西テレビで平日の午前11時台に放送されていた関西ローカル向け番組)月曜日にレギュラーで出演。
「二人でお茶を」(全国ネットで人気を博した『パンチDEデート』の高齢者版に当たる公開お見合いコーナー)で、桑原征平(京都西高校における上岡の後輩で当時は同局アナウンサー)と共に司会を務めた。もっとも、テレビ・ラジオ番組へのレギュラー出演はこのコーナーだけ
1979年9月のコーナー終了後は主婦業と上岡プロモーションの社長業に再び専念していたということで、残念ながら生年月日や出身地、年齢などは不明でした。
ちなみに、知り合ったときにはまだ結婚することになる女性が13歳で上岡龍太郎さんは21歳だったことから馴れ初めを知った笑福亭鶴瓶さんから「あんた犯罪者や」と年齢差を突っ込まれていました。
上岡龍太郎の子供・息子は?
上岡龍太郎さんと結婚した妻の間には1971年3月3日に長男・男の子が誕生しています。
その後は子供は誕生していないようですが上岡龍太郎さんはずいぶんと子煩悩だったようです。
長男は映画監督の小林聖太郎さん。
1994年に関西大学法学部政治学科を卒業するとその後はジャーナリストの今井一さんの助手を務めていました。
その後1996年には今井さんの知人だったドキュメンタリー映画監督の原一男さん主催の「CINEMA塾」に第一期生として入塾
原さんが監督を務めたテレビドキュメンタリー「映画監督・浦山桐郎の肖像」で助監督を務め、ドキュメンタリー「阪神大震災の被災者にラジオ放送は何ができたか」、「大事なことは国民投票で決めよう」などにも携わりました。
2006年には映画「かぞくのひけつ」で監督デビューを果たすと現在も映画監督業を続けています。
上岡龍太郎と甥っ子ミキ家系図は?
上岡龍太郎さんと兄弟お笑いコンビ「ミキ」は実は親戚関係にあります。
兄・三木昴生、弟・亜生の2人の母親が上岡龍太郎さんの妹でミキにとって上岡龍太郎さんは伯父さんにあたることを「特盛!よしもと今田・八光のおしゃべりジャングル」であることを明かしていました。
ただ小さいころに数回しか会ったことがなく、「探偵!ナイトスクープ」を見て祖母の家にいた人が上岡龍太郎さんだと知ったそうです。
コンビ名の由来ですが、兄弟の名字が『三木』ということから付けたといわれています。
上岡龍太郎さんの兄弟関係について姉が1人で兄弟漫才コンビ「ミキ」の母親に当たる妹は異母妹とのこと。
そのためミキの母親は息子2人から、お笑いをやりたいと打ち明けられた時に、上岡龍太郎さんが若い頃に芸人として苦労をしている様子を知っていたので、泣いて反対したのだとか。
異母妹は息子にお笑い芸人をすることを許す条件として、名前が売れる日までは、決して上岡龍太郎さんの甥にあたることを内緒にすることを約束させたそうです。
上岡龍太郎さんの父親は京都帝国大学法学部卒業の弁護士で、母親は上岡龍太郎さんが小学校4年生のときに乳がんのために他界したそうです。
上岡龍太郎の高校や大学、中学の学歴は?
上岡龍太郎さんの通っていた学校は次のとおりです。
小学校:京都市立第四錦林小学校
出身中学:京都市立近衛中学校
出身高校:京都西高校
高校は京都西高校は現在の京都外大西高等学校で第一期生として入学。
大学は同じ落ちるのならレベルの高い大学を受験しようと立命館大学の入試に挑むが不合格なので最終学歴は「高卒」のようです。
まとめ:上岡龍太郎wiki|嫁・息子は?甥っ子ミキ家系図は?
上岡龍太郎は高校卒業後、京都でバンドボーイやジャズバンドの司会などの経験を積みました。彼の軽快なトークは広く知られ、ハンサムな司会者として一世を風靡しました[注 2]。
1959年、当時東京で活躍していた浜村淳に弟子入りを懇願しましたが断られました。しかし、浜村の紹介でロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」に加入しました。1960年には横山ノックの誘いに応じ、「横山パンチ」として横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成しました[9]。
1968年、横山ノックの参議院議員選挙出馬により、漫画トリオは活動を一時停止しました[9]。その後、作家の香川登枝緒によって名付けられた「伊井パンチ」を一時期使用しましたが、婿養子であった父の旧姓である「上岡龍太郎」という名前を名乗るようになりました[9]。
1970年代には近畿放送、朝日放送、ラジオ大阪などの近畿圏の放送局でレギュラー番組を獲得し、中部日本放送でもレギュラー番組を持ちました。彼は近畿圏と中京圏を中心に活動し、関西を代表するタレントとなりました。
長年にわたって、彼は番組中や楽屋裏で「俺は絶対に東京に行かへん!」と語っていましたが、1984年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演し、1987年には『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)が放送開始されました。『パペポTV』は翌年10月からキー局の日本テレビでも放送され、これが彼の東京進出のきっかけとなりました。1988年には代表的な番組である『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)が放送を開始しました。
また、1990年代には上岡演劇祭という小劇場系の演劇賞を主宰していました。
1980年代以降、彼は引退するまでの間、舞台での役作りのために眼鏡を外す以外は、ほぼすべての出演番組で特徴的な眼鏡を着用していました。その眼鏡は、太い枠と広いレンズが特徴であり、彼のトレードマークとなっていました。しかし、1999年の「LIVE PAPEPO 鶴+龍 正月スペシャル」からは、細い枠と狭いレンズの眼鏡に変更されました。
そして、2000年4月にはかつて公約していた通り、「俺は芸能生活40周年を迎える2000年の春に完全に引退する」という公約を果たし、芸能界を引退しました。
上岡龍太郎の父親は小林為太郎という弁護士で、自由法曹団に所属していました。彼は日本共産党公認で衆議院議員選挙に出馬しましたが、落選した経験があります。父親は高知の貧農出身で、苦学して京都大学を卒業しました[11]。
母親の名前は元々北タマでしたが、すぐに小林家の養女となり、小林タマとなりました。彼女は宮崎県延岡市の資産家の養女であり、東京女子高等師範学校を卒業しました[11]。彼女は厳格な人物でしたが、上岡が10歳の頃に早世し、あまり記憶に残っていないと言います。彼は母親が乳癌を発病した際に、霊媒師や占い師などが押しかけて食い物にされる光景をはっきりと覚えています。この出来事は上岡の心にトラウマを与え、オカルトに対して厳しく否定的な態度を持つ原因となりました。
彼には姉が1人おり、異母妹もいます(兄弟漫才コンビ「ミキ」の母親)。
上岡の夫人は彼が漫才師時代からのファンでした。彼女は上岡が集まってきたファンの中から特別な何かを感じ、口説き続けて「君は将来、私と結婚する」と言いました。結婚後、彼女は上岡が多忙を極めていた1979年度の上半期に関西テレビで放送されていた『奥さまリビング』の月曜日にレギュラー出演しました。彼女は「二人でお茶を」(全国的に人気のあった『パンチDEデート』の高齢者版として知られる公開お見合いコーナー)で桑原征平(上岡の後輩で当時は同局のアナウンサー)と共に司会を務めました。