ジュディ・オングさんは「魅せられて」でNHK紅白歌合戦に出場、第21回レコード大賞も受賞した歌手
ジュディ・オングさんの気になるプロフィールをまとめています。
ジュディ・オングwikiプロフィール
名前:ジュディ・オング
帰化名:翁ジュディ
出身地:台湾台北市
生年月日:1950年1月24日
国籍:日本
年齢:73歳
所属事務所:ワーナーミュージック・ジャパン
小学校:東京中華学校
出身中学:調査中
出身高校:アメリカンスクールインジャパン
出身大学:上智大学国際学部
2歳の時に来日すると9歳で「劇団ひまわり」に入団して芸能活動をスタート
歌手としては1979年の「魅せられて」が200万枚を超える大ヒット、同年末にはNHK紅白歌合戦に出場、第21回レコード大賞も受賞している。
ジュディ・オングの結婚した元旦那(夫)は鈴木洋樹
ジュディ・オングさんは元商社マンで画商の鈴木洋樹さんと1991年5月22日に結婚しています。
出会ってから22年も経て結婚に至ったそうですが、結婚生活は6年間ほどで、1997年には離婚してしまったようです。
ちなみに、 ジュディ・オングさんは、鈴木洋樹さんとの結婚前に同じくレコード大賞を取った歌手の寺尾聰さんと交際していた事実も発覚しています。
その当時、結婚を考えていたほどだったようですがなぜ結婚には至らなかったのか?
原因は寺尾聰さんがジュディ・オングさんに「結婚後は家庭に入って欲しい」と強く望んだことで挙式の日取りまで決まりながら破局してしまったようです。
エンゲージリングはルビーだったというウソのようなホントの話があるそうだ。
寺尾聰さんは父親が俳優の宇野重吉ということもあり、1968年父親との競演で俳優としてのデビューすると、西部警察の刑事役をやっていた1981年LP”Reflections”を発表。
「ルビーの指環」は音楽番組「ザ・ベストテン」では12週連続1位の偉業を達成。俳優の中では最も売れた一発となりました。
ジュディ・オングの子供は娘?
ジュディ・オングさんと鈴木洋樹さんの二人の間に子供はいないようです。
その後も結婚や出産したという話はありませんがジュディ・オングさんは1971年に卵巣腫瘍を手術、1987年には子宮内膜症で2ヵ月入院し1年間活動休止しています。
ちなみに、ペットで犬を飼っていて
アイリス
アポロ
ニコラ
という3匹ともホワイトテリア。
アポロとニコラはアイリスの子供でアイリスが出産後に3ヵ月{育休]を取っています。
ジュディ・オングさんは自ら犬のトリミングをしていて・以前飼っていたパール(同じくホワイトテリア)の他界後にペットロス症候群を患ったほど。
ジュディ・オングの経歴
ジュディ・オングさんは9歳の時に劇団ひまわりに入団して芸能活動を始めています。
父親は最初は反対しましたが、「芸能活動をしながらも、学業をちゃんと終わらせること」という条件で劇団に入ることを許可しました。彼女はその約束を守り、東京中華学校を卒業後、ASIJ(アメリカンスクール)で英語を学び、上智大学でスペイン語も習得しました。
1961年に日米合作映画『大津波』で映画デビューしました。その後、テレビドラマ『三太物語』や『明日の家族』などにも出演しました。
1964年、フジテレビ開局5周年記念ドラマ『おねえさん』に出演した際、石原裕次郎から「キングコング」という渾名をつけられました。
ジュディ・オングのツイッターやインスタグラム
ジュディ・オングのツイッター
ジュディ・オングのインスタグラム
ジュディ・オングのフェイスブック
ジュディ・オングの高校や大学、中学の学歴は?
ジュディ・オングさんの通っていた高校・大学は次のとおりです。
小学校:東京中華学校
出身中学:調査中
出身高校:アメリカンスクールインジャパン
出身大学:上智大学国際学部
スタンフォード大学に留学し経営セミナーを受講しています。
ジュディ・オングの父親は?
ジュディ・オングの父親は、タレント、シナリオライター、そしてプロデューサーとして活躍しました。
ジュディ・オングの父親の名前は不明ですが、中国で視聴率75%の番組を手がけるなど、その才能と功績で知られていました。
2歳の時、ジュディ・オングの父親がGHQ(連合国軍最高司令部)の心理作戦部チーフに就任し、一家は日本に移住しました。
一方、ジュディ・オングの父方の祖父は辛亥革命の中心人物であり、国民党の初代総裁としても知られています。
ジュディ・オングの母親・兄弟は?
ジュディ・オングの母親は銀行で数年間勤務した後、結婚して家庭に専念しました。
母親の実家は台湾の大地主であり、家の敷地は約4000ヘクタールにも及びます。その土地には母方の祖父の銅像が建てられており、一家の歴史と誇りを象徴しています。
ジュディ・オングさんは東京中華学校で北京語を学びながら、家庭教師から英語の勉強も始めました。しかし、家庭では両親の母語である台湾語を話すように教育され、日本語で話しかけると母親が答えてくれないこともありました。
ジュディ・オングは急に産気づいて自宅のベッドで産まれましたが、出生時には呼吸が停止していました。
しかし、奇跡的に回復し、健康な赤ちゃんとして両親のもとに迎えられました。
ジュディ・オングさんには兄がおり、家族と共に幸せな子ども時代を過ごしました。