武田斐三郎は五稜郭の設計者として知られる人物。
「五稜郭」とは江戸時代末期に現在の北海道函館市に蝦夷地防衛の為に築城された日本初の西洋式城郭。
現在では日本100名城のひとつ五稜郭とされる武田斐三郎の子孫は?
武田斐三郎は五稜郭の設計者
五稜郭は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)に築造した星型の要塞です。武田斐三郎が設計し、1857年(安政4年)に着工、1866年(慶応2年)に完成しました。
五稜郭は、5つの稜堡(りょうほう)と4つの角櫓(かくろう)から構成されています。稜堡は、敵軍の砲撃を防ぐための砲台が設置された突出部です。角櫓は、敵軍の侵入を防ぐための高塔です。
星のように城壁が延びたのは、その上に大砲などの火器を配置して、敵に対して効果的な十字砲火を浴びせるためだった。こうした設計の城を稜堡(りょうほ)式城郭と呼び、死角がない鉄壁の防御力を誇った。
五稜郭は、箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争は、明治新政府軍と旧幕府軍の間で戦われた戦争で、1869年(明治2年)に旧幕府軍が敗北しました。
武田斐三郎の五稜郭はなぜ陥落?
難攻不落とされた五稜郭がなぜ落ちたのか?
五稜郭が攻略された理由はいくつかあります。
- 五稜郭の防御は、砲撃に弱かった。五稜郭は、星型の要塞で、各稜堡に砲台が設置されていました。しかし、敵軍は、五稜郭の周囲から多方向に砲撃を加えることができたため、五稜郭の城壁は徐々に破壊されてしまいました。
- 五稜郭には、分派堡が不足していた。分派堡とは、城の周囲に建てられた小規模な要塞で、敵の接近を阻止する役割を果たします。五稜郭には、当初7つの分派堡が計画されていましたが、実際に建てられたのは1つだけでした。そのため、敵軍は、五稜郭の周囲を自由に動き回ることができ、五稜郭の守備陣を圧倒することができました。
- 五稜郭の兵力は、新政府軍に比べて少なかった。五稜郭には、約2,500人の兵士がいたと言われています。一方、新政府軍には、約10,000人の兵士がいたと言われています。兵力差が大きく、五稜郭の守備陣は、新政府軍の攻撃に耐えることができませんでした。
五稜郭は現在、北海道函館市の観光名所となっています。五稜郭内には、箱館奉行所跡、五稜郭タワー、旧開拓使資料館など、歴史的な建造物が数多くあります
武田斐三郎の子孫は?五稜郭の設計者
武田斐三郎の子孫は存命で、函館新聞によると名前は南雲さんのようです。
ただ武田斐三郎の子孫は現在はどうやら函館には住んではいないようです。
ちなみに、五稜郭内にある武田斐三郎の彫像の顔を触ると頭が良くなるという噂から、多くの人に撫でられてきたため輝いているそうです。
まとめ:武田斐三郎の子孫は?五稜郭の設計者
武田斐三郎の生まれは1827年の文政10年、愛媛県大洲市に生まれました。彼の家は甲斐武田氏の子孫で、大洲藩加藤氏に仕えていました。幕末(江戸時代の終わり)に活躍し、明治時代にも新しい日本の近代軍事を指導した偉大な人物です。
若いころ、武田斐三郎は大洲藩校・明倫堂で学びながら、漢方医学を母方の実家で学んでいました。その後、22歳の時に藩主・加藤泰幹に頼み、大坂の適塾で学びました。さらに兵学や砲学も学び、ペリー来航の際には、吉田松陰らと一緒に黒船を見て、『三浦見聞記』という本を著しました。その才能が認められ、江戸幕府の命令で旗本として働き始めました。
武田斐三郎は長崎でロシアのエフィム・プチャーチンと交渉したり、機械や弾薬の製造を手伝ったり、五稜郭の設計や建設にも関わりました。また、ロシアへの貿易にも出かけ、国産帆船「亀田丸」を操縦して日本一周したこともあります。
彼の人生は色々な面で輝かしいものでしたが、戊辰戦争が始まると、大洲藩が討幕派だったため、疑われて松代藩に匿われることになりました。その後、明治時代になって新政府に出仕し、日本の近代兵制や装備、運用に関わり、明治8年には陸軍士官学校を創設しました。しかし、その後健康を害し、明治13年に病死しました。
武田斐三郎は日本の歴史に多大な貢献をした偉大な人物であり、彼の功績は現代の日本にも影響を与えています。彼の名前は、東京芝東照宮社前に立てられた碑などで称えられています。