清岡卓行 「ミロのヴィーナス」では
「僕は一種の怒りをもって、その真の原形を否認したいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。」
といった一説がありますが、「~の名において」とはどういう意味なんでしょうか?
「~の名において」の意味は?現代文ミロのヴィーナス
「…の名において」というのは、一体、何を意味しているのか、具体的な文例を眺めながら、こういった語句が、その文の中で「どんな役割を果たしているのか」を検討してみます。
* 信仰の名において(=信仰のためという大義名分を振りかざして)もまた、これまでさまざまな形の暴力行為が行われてきたが、私たちはこれらをだまって見過ごすことができるだろうか。
- 科学の名において(=科学という名目のもとで)しばしば、事実とフィクションが混同されるが、これは決して最近だけの現象ではない。
- 受刑者の人権を援護するための組織である「アムネスティ・インターナショナル」はテキサス州知事であるジョージ・W・ブッシュ氏に対し、人間性の名において(=「人間性」という理念を十分に考慮して)(6月22日に予定されている)グラハム氏の死刑を執行しないよう要請した(2000年6月17日付 Die Welt 紙の記事)。
- 「人権」というものを、恣意的に使用することのできる武器と心得ている者は、他人の信用を失うだけである。人間性の名において(=「人間性」を擁護するという名目の下に)他国の内政に干渉しようとする国家があるが、その論拠はしばしばきわめてあいまいであると言わざるを得ない。
- 社会主義の名において(=社会主義を守るという名目で)自由を抑圧し、そして人権を思うがままに弄んだ最後の共産主義国家(キューバのこと)の活力は、もうすでに失われてしまっている。
- 多くの場合、絶え間のない軍備拡張は、その国を防衛するだけの役割を果たすことは決してなく、持っている武器は、あるイデオロギー──イデオロギーというものは、必ずしも個々の人間の尊厳を考慮するわけではない──の名において(=あるイデオロギーを奉じて)、他国を攻撃するのに使用されるのである。
「~の名において」とは、ある行動や命令の正当性や威厳を示すために使われる表現です。この表現は、特に大義名分や正当性を主張する際によく使われます。言い換えると、その行動や命令が何らかの重要な理由や背景に基づいて行われていることを強調するために用いられるのです。
例えば、「神の名において」という表現を考えてみましょう。これは、神の命令や意志を代弁して行動する聖職者や信者が、その行動の正当性を主張する際に使う表現です。神の名において何かを行うことで、その行動が神聖であるという大義名分を示すことができるわけです。相手に対して反論が難しくなります。
同様に、「芸術というものの名において」という表現も、芸術が持つ重要な性質や意味を強調するために使われます。この表現を用いることで、その行動や行為が芸術的な要素や価値を持っていることを示すことができます。芸術が何らかの大きな理由や背景によって支えられているという意味合いが含まれています。
「芸術というものの名において」という表現に「というものの」が追加されているのは、より強調しているということを意味しています。この部分が付け加えられることで、その行動や命令が「芸術」という一般的な概念や本質に従って行われていることが強調されます。
要するに、「~の名において」という表現は、行動や命令の正当性や重要性を示すために用いられるものであり、その行動や命令が特別な理由や背景に基づいて行われていることを強調する言い回しと言えます。
まとめ:「~の名において」の意味は?現代文ミロのヴィーナス
「~の名において」とは、ある物事や人の名前を挙げて、その権威や力に訴えて何かを言うときの表現です。例えば、「愛の名において、あなたを許します。」と言うときは、愛の力に訴えて相手を許すということになります。
「芸術というものの名において」とは、芸術の力に訴えて、何かを言うときの表現です。例えば、「芸術というものの名において、私は何でもする。」と言うときは、芸術のためには、何でもする覚悟があるということになります。
「芸術というものの名において」と言うとき、「芸術」という名前に特別な力を与えることで、それに従えというわけです。芸術は、人々の心を動かす力があります。芸術に触れたとき、人は美しさや感動を感じます。芸術は、人々の心を癒したり、励ましたりすることもできます。芸術は、人々の人生を豊かにしてくれるものです。