戦国武将・酒井忠次の最後は?死亡?
酒井忠次は、徳川四天王のひとりに数えられる名将で十六神将筆頭
家康の嫡子・信康(のぶやす)を切腹に追い込んだとも言われますがNHK大河ドラマ「どうする家康」で酒井忠次の最後は?死亡?
酒井忠次(どうする家康)最後は死亡?
史実では酒井忠次は関ヶ原の戦い前に亡くなります
小田原征伐のときには、酒井忠次は家督を息子の酒井家次に譲り、一線を退いています
桶狭間の戦いから数えて、小田原征伐は30年後であるし、関ヶ原の戦いは40年後、大坂の陣で豊臣家が滅亡したのが55年後のことで、ドラマでも家康の家臣たちが、それまでの宿老の子に世代が代わり始めた頃で、大坂の陣のときには完全に世代交代しています
「どうする家康」でも大森南朋さん演じる酒井忠次は、小田原攻めをする直前の第37話「さらば三河家臣団」あたりから姿を見せなくなってきましたw。
酒井忠次いつ死んだ?
酒井忠次は、最後は静かな晩年を過ごし、70歳で亡くなりました。
酒井忠次は長い間徳川家康の側近として活躍しましたが、その後の出来事が彼の人生に影響を与えました。彼が最も有名な戦いの一つは、1584年の小牧・長久手の戦いです。この戦いで忠次は、秀吉軍から小牧山の陣地を守るなど、中心となって活躍しました。しかし、膠着状態が続く中、秀吉と家康が和解し、家康は秀吉の配下となりました。このことで忠次の活躍の場は失われ、家康の信頼を受けた彼も次第に影を潜めていきました。
忠次は父としても息子のことを考え、家康の指示に従い、家督を嫡男の家次に譲りました。これが1588年のことで、忠次は61歳でした。しかしながら、家康が関東に移封されると、他の家臣たちには大きな領地が与えられましたが、忠次の息子である家次にはそれほどの領地は与えられませんでした。この差に忠次は不満を感じ、家康に不平を申し出ましたが、家康から「お前も我が子が愛おしいのか」と諭されました。忠次がかつて信康の自害を防げなかったことから、家康に恨みがあるとも言われましたが、真相はわかっていません。
最終的に、酒井忠次は1596年、家康の天下統一を見届ける前に70歳でこの世を去りました。
まとめ:酒井忠次(どうする家康)最後は死亡?
酒井忠次は、家康の腹心として、長篠の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の戦いで活躍しました。しかし、1584年に豊臣秀吉と講和した家康の配下となると、秀吉の有能な重臣たちと比べて活躍の場を失っていきました。
1588年には、家督を息子である家次に譲り、隠居生活に入りました。家康の関東移封後、井伊直政、本多忠勝、榊原康政は10万石以上を与えられたのに対し、家次は3万石しか与えられませんでした。忠次は家康に不満を申し立てましたが、家康から「お前も我が子が愛おしいのか」と諫められたといわれています。
酒井忠次は、1596年に70歳で亡くなりました。家康の天下統一を見ることなく、静かにこの世を去りました。