「水を得た魚」とは意味は?
水を得た魚の読み方は「みずをえたうお」?「みずをえたさかな」?
水を得た魚|意味は?
「水を得た魚」という言葉は、自由に活動できる場所を持ち、元気に生活しているさまを表現するための言葉です。この表現は、うお(魚)が水を得て泳ぐことができるように、適した環境で活躍するという意味を持っています。具体的には、人々が自分らしい力を発揮し、幸せに感じる場所や状況にいる様子を表現するのに使われます。
この表現は、歴史的な文学や物語に由来しています。『三国志』という中国の歴史小説に登場する武将・劉備と軍師・諸葛亮孔明の関係に関連しています。古株の武将たちが彼らの関係を嘆いたところ、劉備は「わたしと孔明は魚と水のように切り離せない仲だから、不満を口にしないでくれ」と述べました。このやりとりが、魚が水を得ると本来の力を発揮できるという考えにつながり、「水を得た魚」という表現が生まれました。
水を得た魚|読み方は「みずをえたうお」?「みずをえたさかな」?
水を得た魚の読み方は「みずをえたうお」?「みずをえたさかな」?
「魚」はもともと「うお・ギョ」としか読まず、「魚」を「さかな」とも読むようになったのは昭和48年の「当用漢字音訓表」に「さかな」の読み方が追加されてからとされていますが、「魚」のことを「さかな」と呼び始めたのは”近世(おおよそ江戸時代)”以降です。従って、戦国時代までは、「魚」のことは「うお」と言っていたようです。
なので、なので、今では読み方は
「みずをえたうお」
「みずをえたさかな」
どちらも正しいと言えるでしょう。
なお、戦前の文芸作品でも「魚」を「さかな」と読ませているものは数多くあります。(戦前は当用漢字表が定められていなかったので、漢字の当ては筆者次第でした)
<用例>
・私はお徳の前に立って、肴屋の持って来た付木にいそがしく目を通した。それには河岸から買って来た魚(さかな)の名が並べ記してある。「嵐 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)」
・まだ暮果てず明いのに、濡れつゝ、ちらちらと灯れた電燈は、燕を魚(さかな)のやうに流して、靜な谿川に添つた。流は細い。「城崎を憶ふ (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)」
水を得た魚|使い方や例文
- サッカーが得意なので、彼はサッカーチームでプレーすると、本当に「水を得た魚」のようにプレーします。
- 新しい学校に転校して友達をたくさん作ったら、彼女はクラスで「水を得た魚」のように自信を持っています。
- 芸術の世界で彼女が表現すると、まるで「水を得た魚」のように自由で、美しい作品が生まれます。
- 春の暖かさと自然の中で遊ぶことができると、子供たちは庭で本当に「水を得た魚」のように楽しんでいます。
まとめ:水を得た魚|意味・読み方は?使い方や例文は?
「水を得た魚」とは、
自由に活動できる場を得て、生き生きとしているさま
適した環境で、本来の力を発揮しているさま
という意味です。
例えば、
- 水泳が得意な人が、水の中で泳いでいるときは、水を得た魚のように自由に泳ぎ回ることができます。
- 歌が上手な人が、ステージで歌っているときは、水を得た魚のように生き生きと歌うことができます。
- 勉強が得意な人が、勉強しているときは、水を得た魚のように集中して勉強することができます。
「
水を得た魚」の語源は、
中国の歴史書『三国志』にあります。
三国時代の武将・劉備と軍師・諸葛亮孔明は、とても仲が良かったことで知られています。
ある日、劉備の古い部下である関羽と張飛は、劉備と諸葛亮孔明の仲の良さを妬んで、劉備に不満を言いました。
すると、劉備は「わたしと諸葛亮は、魚と水のように切っても切れない仲だ」と言って、関羽と張飛をなだめました。
このやりとりから、魚は水があれば本来の力を発揮できるとして、「適した環境で生き生きと活躍する」という意味で使われるようになりました。