天草四郎の最後・死因は?島原の乱で討ち死に?

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天草四郎の最後は島原の乱で籠城した原城で討ち死にした?

天草四郎の死因は何だったんでしょうか?

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天草四郎の最後・死因は?島原の乱で討ち死に?

天草四郎(益田四郎時貞)は豊臣秀吉の重臣として関ヶ原の戦いで斬首された小西行長の遺臣の増田甚兵衛の子供として江部村でで誕生。

父はキリシタン信者でした。当時、天草・島原地方では飢饉、重税、キリシタン弾圧などに苦しみ、人々は不満を抱いていました。

マルコス宣教師が予言した「25年後に神の子が現れて人々を救う」という言葉が広まり、その予言に基づいて四郎が神の子と噂されました。

長崎留学から帰った天草四郎は説教で人々の心を捉え、天草・島原の一揆の総大将になりました。

島原の乱では天草四郎の率いる反乱軍が籠城した原城で皆殺しにされ(生存者は内通した山田右衛門作ただ一人だけ)、旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定されますが、首実検しようにもその首自体が天草四郎本人の首かどうか最終的にはわからないまま

誰も天草四郎の顔を確認することが出来なかったようですが、熊本藩藩主・細川忠利の書状によると、四郎は焼けずに残った家屋に潜んでいたが、細川勢の火矢によって隠れ家を焼かれ、そのまま討ち取られたとあります。

乱終結後、首実検のため熊本から連行された母・マルタはどの首を見ても顔色一つ変えませんでしたが、化粧を落として疱瘡痕のある首を見たとたん泣き崩れたといいます。

この首は細川家の陣佐左衛門が討ち取ったものであり、幕府はこの首を四郎だと断定したといわれます。

天草四郎の島原の乱とは?

当時の天草地方は寺沢広高によって統治され、天草の石高が過大に定められたために苦しんでいました。

さらに大凶作やキリシタン信者への迫害が行われ、耐え切れなくなった人々による一揆と宗教戦争が「天草・島原の乱」となりました。

1637年10月、島原で農民が蜂起し、天草でも一揆が起こりました。天草四郎は一揆軍の支柱となり、勇敢に幕府軍と戦いましたが、力の差から一揆軍は敗北し、多くの死傷者を出して終結しました。

一揆群は大島子(天草市)の戦い、町山口川(天草市)の戦いで勝利を収め、勢いに乗って富岡城(苓北町)を攻めますが、難攻不落、富岡城陥落をあきらめ、次は海を渡って原城(長崎県島原市)へ向かったものの、 3ヶ月間の籠城の末、大勢の幕府軍に敗れてしまいました。

島原の乱による農民一揆に対応するため、徳川家光は10万の軍勢を派遣しています。

しかし、一揆軍は予想以上に強く、幕府の大将である板倉重昌も討ち死にするほどでした。

一揆軍は計画的で、小西行長の遺臣や経験豊かな戦士たちが参加し、天草四郎の存在も勇敢な戦いを支えました。

島原の乱では一揆軍が1万人以上の首を取り、幕府軍も多くの死傷者を出しました。

まとめ:天草四郎の最後・死因は?島原の乱で討ち死に?

天草四郎は「島原の乱」と呼ばれる反乱の指導者でした。彼はキリシタンの農民たちを率いて幕府連合軍と戦いました。天草四郎はカリスマ的な存在であり、奇跡的な力も持っていました。しかし、最終的に幕府連合軍によって鎮圧され、彼自身も戦死しました。一揆軍は数が少なかったにもかかわらず、彼らの結束力と勇気が大きな戦果を挙げる要因となりました。

幕府藩連合軍の指揮官である松平信綱が熊本藩主細川忠利に宛てた手紙によると「天草四郎を生け捕りにしたい」と書かれています。

当時の資料は限られているため、この手紙が乱に関する幕府の動きを明確に示している貴重な証拠とされ、信綱は急遽忠利の意見を採用し、四郎を生け捕りにする作戦を変更しました。

戦闘が激化する中で実行するのは困難でしたが、信綱が忠利の情報を軍全体に伝えたことは重要な決断でした。

忠利にとっても、家臣の討ち取った首が四郎のものと認められたことは一定の満足をもたらしたでしょう。この手紙は当時の臨場感と緊張感を伝えるものとして注目されています。

(読み下し)
 以上
江戸・大坂への御状後刻、次飛脚遣わし申すべく候、仰せの如く天気能(よく)一段の儀に御座候、将亦(はたまた)、昨日おち(落ち)申し候女の申す分仰せ下されかんかえ(考え)、四郎をいけとりに(生け捕りに)中間にて仕(つかまつ)り候様に、申し遣わし度事(たきこと)に候、猶(なお)面上其の意(貴意)を得べく候
                         松平伊豆守(信綱)
  二月廿六日                     (花押)
細越中(細川忠利)様
   貴報

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