天草四郎は豊臣秀頼の子であるという説があります。
つまり天草四郎時貞は豊臣秀吉の孫に当たるのでしょうか?
■天草四郎とは
天草四郎は、島原の乱時代に活躍した人物で、カリスマ性があり学問に親しみのある人物として知られています。彼は乱の指導者として一揆軍を率いたが、実際の指揮は浪人や庄屋たちが行っており、彼自身は戦意高揚のために利用されたと考えられています。また、彼の目撃情報が残っており、船で乗り込んだ姿や十字架を掲げていたなどの逸話があります。最終的に原城の籠城戦に参加し、幕府軍に討たれたとされています。彼の母は彼の首を見て泣き崩れ、幕府軍はそれを彼の首と断定しました。天草四郎は天草や島原などに銅像が建てられ、彼の母が建立したとされる墓石も原城跡に移築されました。
天草四郎は豊臣秀頼の隠し子?豊臣秀吉の孫?
天草四郎は本名を益田四郎時貞といい、元和7年(1621)江部村(現在の宇土市旭町江部)に生まれる。父益田甚兵衛はキリシタン(切支丹)大名小西行長の元家臣で、小西家没落後、江部村で農業を営んでいた。家族ともに敬謙なキリシタン信徒でした。
天草四郎は豊臣秀頼の子であるという説が囁かれるのは、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから。
大坂夏の陣において死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して九州・薩摩へ逃れていたとする論拠で、豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられていますが大阪城から落ち延びるのは至難の業でしょう。
そもそも、馬印なんて誰だって「好きなものを拵えられる」でしょう
秀頼が生まれたのは1593年。島原の乱が起きたのは1637年。秀頼が万一生き延びていたとしても、乱の時には44歳の壮年です。
対する天草四郎の実在は疑わしいにしても、青年といわれています。
ただ「あのひとは豊臣秀吉の孫らしいよ」って噂を流せば、城内の士気も上がるし(俺たちはただの田舎の叛乱ではない、と思えば、なんとなく勝てるような気がしてくる)、それで「豊臣の残党」が加勢に集まってきてくれるかも知れない。
そういう効果を狙った可能性はあるかもしれません。
原城跡から、豊臣由来を思わせる遺物がチョクチョク掘り出される、って話はあります。たぶん「そういう演出」を考えた頭のいい奴がいたんでしょう。
まとめ:天草四郎は豊臣秀頼の隠し子?豊臣秀吉の孫?
天草四郎に大阪の陣豊臣方の兵や武将が味方したことも、天草四郎は豊臣秀頼の子であるという説の理由となっています。
ただ天草四郎の父は小西行長に仕えた益田好次であることがはっきりしています。
ほかにも天草四郎は女性だった、宣教師だった、果ては存在しないという説もあり、そのキリシタンによる一揆討伐における、大義名分とする為の虚像ともされています。
島原の乱は、天草・島原の領主が幕府の歓心を買うため、領民に過酷な負担を強いた結果起こった反乱です。
領主が暴政を隠蔽するため、キリシタンの反乱を口実にしたものです。(指導者がキリシタンなので)
領民といっても、元は小西行長の遺臣等の武士でした。
実際、天草四郎は小西家の家老の子弟でした。
秀吉に重用された小西の遺民にとって、豊臣家は尊敬すべき存在です。
豊臣家の栄光にあやかったのかもしれません。
また、キリスト教といっても、反乱を見聞した西洋人は「あれは異端だ」と評しています。
教会から見て、キリシタン迫害の殉教者と同列に扱うのは憚りがあるのでしょう。
秀頼は真田幸村に担がれて、大阪城落城後に薩摩に逃げたという説があります。
反乱時は40代で10代の美少年には程遠いです。
その子供としても、薩摩を出て他所に匿われるのは至難の業です。
義経伝説のように、滅びし者への憐憫と為政者への声なき抵抗が生み出したものです。
豊臣秀頼の隠し子とも言われる天草四郎の島原の乱とは?
時貞の母が松平伊豆守の取り調べを受けた際の申立てによれば、時貞は肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市旭町)で育ち、事件の直前に父に連れられて大矢野村の親戚のもとに行ったようです。ドアルテ・コレテの手記からも、彼が肥後出身であることが確認できます。彼は学問修養のために何度か長崎を訪れ、一揆の直前に父とともに天草に移ったと言われています。彼が長崎でキリスト教に入信したとも推測されています。また、信憑性は低いとされますが、時貞が長崎の浜町に住んでいて、その屋敷跡が後に残っていたという記録が『長崎地名考』に載っています。
彼の生涯については、生まれながらにカリスマ性を持っていたと言われています。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養を備えていたとされます。彼は小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立され、神格化された人物と考えられており、彼が様々な奇跡を起こしたという逸話も存在します(例:盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いた、手から鳩を出したなど)。ただし、これらの逸話は、イエス・キリストが起こした奇跡として新約聖書の四つの福音書にも多数記述されており、上記の逸話が四郎の名声を高めるために福音書の言い伝えを参考に創作された可能性もあるとされています。
島原の乱が勃発した寛永14年(1637年)には、天草四郎はカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となりました(「山田右衛門作口書写」)。戦場では十字架を掲げて軍を指揮したとも伝えられていますが、実際には彼自身はまだ10代半ばの少年であり、乱を計画・指揮していました。
時貞は戦闘の中でも勇敢さと戦略的な判断力を示しました。彼は敵対勢力との激しい戦闘で何度も前線に立ち、部下たちを鼓舞しました。彼の指導のもと、乱は一時的には成功を収め、島原城を包囲しました。
しかし、島原の乱は幕府軍の猛攻により徐々に追い詰められ、最終的には敗北を喫しました。時貞も島原城の包囲戦で討ち死にしました。
島原の乱は鎮圧され、その後キリシタン禁制政策が強化されることとなりました。天草四郎時貞の存在は、乱の指導者としての勇敢さとカリスマ性、そしてキリスト教徒としての信念を称えられています。彼の人物像は多くの文学作品や歌舞伎などにも描かれ、日本の歴史の一部として広く知られています。