足利将軍家の子孫・末裔は?足利尊氏や足利義昭の現在の系譜は足利義弘?

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足利将軍家の子孫・末裔は現代まで続いているんでしょうか?

室町時代の足利将軍の末裔は現在も存続している?断絶している?

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足利将軍家の子孫・末裔は?足利尊氏や足利義昭の現在の系譜は足利義弘?

足利将軍家の子孫・末裔、つまり室町将軍家の直系は断絶しています。

ただ一般には江戸時代に喜連川氏を称した系統(基氏)の家系が明治になって足利に復姓し、”直流”の扱いをされているようです。

この喜連川氏は室町将軍家ではなく鎌倉公方の家系であり、家祖は二代将軍・足利義詮の弟である足利基氏です。

将軍家の末裔というよりも鎌倉公方の末裔といったほうが適切かもしれません。

江戸時代には1万石未満の所領ながら10万石の大名の格式を与えられ明治には子爵に叙せられています。

その喜連川氏が傍流から養子相続で現在に至っています。

喜連川氏系第15代当主であった足利惇氏が昭和58年(1983年)に死去して以降は、平島公方系の子孫が足利氏の祭祀を継承している。越前には、足利義嗣の子孫が鞍谷御所として続いた。

まとめ:足利将軍家の子孫・末裔の現在は?

足利将軍家の子孫・末裔について15代将軍義昭の正系は断絶しています

義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となった後、興福寺の大乗院門跡となった。義尋は後に還俗して二人の子をもうけたが、二人とも仏門に入っています。

寛政年間、会津藩士の坂本義辰は義昭の長男である足利義喬の子孫と名乗った。義喬は近江国坂本で一色藤長に養育された後、子孫は保科氏に仕え坂本姓を名乗ったとしている。また、「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において泉州蟄居の際にできた子として、足利義在という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。

13代将軍義輝の子孫
細川藤孝の孫で熊本藩主となった細川忠利は、讃岐国に閑居していた義輝の遺児・義辰(尾池玄蕃)を探し出し熊本に迎えている。忠利は、熊本藩の客分・宮本武蔵とともに義辰を山鹿温泉の新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。子孫は西山氏を名乗り、知行1000石、比着座同列定席の家格にて明治に至る。他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護され丹波国の波多野氏の下で養育されたという足利義高(出家して天誉)がいたと伝わる。

足利 義維(あしかが よしつな)
室町幕府11代将軍足利義澄の次男・10代将軍足利義稙の養子・14代将軍足利義栄の父。堺公方・平島公方。
歴代平島公方

  1. 足利義冬(よしふね、別名 義維)
  2. 足利義助(義栄の弟)
  3. 足利義種
  4. 平島義次通称又八郎
  5. 平島義景
  6. 平島義辰
  7. 平島義武通称熊八郎
  8. 平島義宜
  9. 足利義根 文化2年(1805年)に京都へ移る。
  10. 足利義俊
  11. 足利義孝
  12. 足利義廉
  13. 足利進悟 (1908年 – 2003年)前全国足利氏ゆかりの会特別顧問
  14. 足利義弘(現当主)現全国足利氏ゆかりの会特別顧問 創造学園大学教授

喜連川頼氏
小弓御所・足利義明の次男・足利頼淳(頼純)の次男

足利将軍には本家と並ぶ関東公方の家がありました。

足利尊氏が二代将軍となった足利義詮(よしあきら)の弟の基氏に関東の支配を委ね、関東管領としました。

この足利基氏の子孫が喜連川の名字を名乗り、徳川家康に従って家を保ちました。

江戸時代には喜連川家は5千石の領主でした。(下野喜連川藩)

しかし江戸幕府からは足利将軍の血筋の家として、喜連川家は10万石格の大名として扱われました。

その後、下野喜連川藩は幕末まで続きます。

喜連川の姓が全国で約60件ありますから、その中には直系の末柄はいるでしょうね。

平島公方系の足利氏の系統は14代将軍足利義栄の弟の子孫です。

なので、鎌倉公方系の喜連川足利氏よりは将軍家にずっと近い家です。

ただ、義栄は足利義昭を擁する織田信長に対抗し敗れたという経緯があったため、義昭の系統が絶えた後、最も将軍家嫡流に近い家であったにも関わらず、

嫡流とされず、鎌倉公方系と比べると、はるかに低い扱いしか受けられませんでした。

江戸時代を通して徳島藩蜂須賀家の客将として、しかも非常に低い扱いしか受けられず、明治になって新政府に華族にしてくれと求めましたが、これも認められず、平民扱いでした。

それでも絶えることはなく、現当主の足利義弘氏は「全国足利氏ゆかりの会」の特別顧問をしておられます。

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