ベトちゃんドクちゃん現在・その後は?今どうしてる?両親・母親は?

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ベトちゃんドクちゃん(ベトさん、ドクさん)はベトナムに生まれたシャム双生児(結合双生児)。

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ベトちゃんドクちゃんとは?

ベトちゃんドクちゃんは『シャム双生児(結合双生児)』と呼ばれるもので、このシャム双生児自体は病気ではありません。

昔から、世界各地で存在していましたが、19世紀にアメリカの見せ物小屋で興行していたタイ人の結合双生児『ブンカー兄弟』が『シャム双生児(The Siamese Twins)』と名乗ったために、この名称が一般的になったそうです。

ウィキペディアによると、5~20万組に1組の割合で結合双生児が生まれる可能性があると言われているらしいです。

ただし、ベトナム戦争時に米軍が散布した枯葉剤に含まれていたダイオキシンには、奇形を産ませやすい特性があることがマウス実験で確認されたそうで、その被害を受けたのではないかと当時から言われていました。

ただベトちゃん、ドクちゃんの様な奇形児出産と枯れ葉剤によるダイオキシン中毒の因果関係はまだ証明されていません。

アメリカでも兵士がそのせいで病気になったという裁判が行われた例もありますが、最後まで争われず和解となっています。

ベトナムの場合も「遺伝性奇形児ではない類似の奇形児」が次々と出ているという報道はされていないようです。

ベトちゃんドクちゃん両親・母親は?

1981年2月25日、ベトナム中部のザライ・コントム省で、グエン・ベトとグエン・ドクという名前の双子が生まれました。彼らは下半身がくっついた二重胎児で、足は2本で肛門は1つしかありませんでした。ベトナム戦争は既に6年前に終わっていましたが、戦争の影響が残り続けていたため、彼らもその影響を受けたのではないかと多くの人が感じました。ベトとドクは世界的に有名になりましたが、特に日本の関係者の支援により、彼らはベトナム戦争の悲劇と救済の象徴として日本で知られるようになりました。

ベトとドクの母親は、終戦から1年後の1976年に枯葉剤で汚染された地域に移り住み、農業を営んでいました。二人が生まれたとき、驚いた医師は奇形の異常さにより、子供たちが亡くなったと親に伝えたと言われています。しかし、母親は二人をコントム病院に預けたまま行方不明になってしまいました。

後にこの二重胎児は、「ベトナム・東ドイツ友好病院」に移されましたが、名前がなかったため、「ベト(越=ベトナム)」と「ドク(徳=東ドイツ)」と名付けられました。

ベトちゃんドクちゃんの分離手術

ベトが5歳の時、彼は急性脳症にかかりました。手術は1986年6月19日に東京で行われましたが、その後も後遺症が残りました。

2年後の1988年3月、彼らは母親と再会することができましたが、やがてベトの状態が悪化し、二人の命が危険にさらされる状況に直面しました。

日本赤十字社が支援して1988年10月、ツーズー病院に派遣された4人の日本の医師たちも加わり、ベトナム人医師70人も加えた17時間にわたる分離手術が行われ、無事成功しました。ベトには左足が、ドクには右足が与えられました。

ドクには日本から義足が提供されました。

ベトちゃんドクちゃん現在・その後は?今どうしてる?

手術後、ドクは障害児学校を卒業し、中学校に進学しました。その後、彼は職業訓練学校でコンピュータ・プログラミングを学び、ツーズー病院で医療事務の職員として働くようになりました。

弟のドクさんは結婚して2009年に男女の双子の父親になりました。

二人のお子さんは「富士山」「桜」にちなんだ名前に命名されたそうです。

2017年には広島国際大学がグエン・ドクさんを客員教授に招聘。

一方、兄のベトの方はツーズー病院での寝たきりの生活が続いていた兄のベトさんは2007年に26歳で腎不全と肺炎を併発して亡くなられました。

弟のドクさんは南部ホーチミンに日本風の料理店を開店していた時期もあったようですが、現在は体調が芳しくないようでお店は閉められたようです。

店名は「ドク ニホン(Duc Nihon)」

ただ、2020年のコロナで第二の故郷日本にマスクをたくさん寄付していただいたようです。

理由は1988年にお二方の分離手術を日本赤十字社、日本の市民団体が支援していたため。

まとめ:ベトちゃんドクちゃん現在・その後は?今どうしてる?両親・母親は?

ベトちゃんドクちゃんは、1981年にベトナムのコントゥム省で生まれた結合双生児です。5歳のとき、ベトが急性脳症にかかり、1986年に東京で手術を受けましたが、後遺症が残りました。2年後の1988年、二人は行き先不明だった母親と再会しましたが、ベトの容態が悪化し、二人の命が危ぶまれる事態に直面しました。1988年10月、ベトナムのツーズー病院で、日本から派遣された4人の医師たちも加わって17時間にも及ぶ分離手術が行われ、無事成功しました。ベトには左足が、ドクには右足が与えられました。

分離手術後、ドクは障害児学校から中学校に進学し、その後、職業訓練学校でコンピュータープログラミングを勉強しました。現在は、ツーズー病院で医療事務を担当する職員です。

ベトナム政府によれば、最大300万人のベトナム人が枯れ葉剤にさらされ、21世紀の現在もなお先天性欠損を抱える子ども15万人を含む100万人が健康への深刻な影響を受けているとしています。

1984年、アメリカのベトナム帰還兵らが枯葉剤製造会社に対して集団訴訟を起こした。訴訟に加わった帰還兵らは4万人を超えた。しかし、裁判が審理入りする直前になり、突如原告代表者が会社側との和解を発表、製造会社側は枯葉剤の被害を認めぬまま原告に補償金1億8000万ドルを支払うことで同意した。

1991年、アメリカの枯葉剤曝露帰還兵に対して救済法が成立し、15の疾病に枯葉剤との関連が認められた。

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