壇ノ浦の戦いでは安徳天皇が入水し三種の神器は海の中に消えたとされますが、現在はどうなっているんでしょうか?
次代の後鳥羽天皇は三種の神器無しに即位することになったんでしょうか?
壇ノ浦の戦いで安徳天皇は?三種の神器の現在は?紛失も紛失?
結論から言うと三種の神器については諸説あり、その存在および現在の所在地は不明となっています。
壇ノ浦の合戦の平家入水の際、二位尼(清盛の妻)は、宝剣と勾玉を身につけ、安徳天皇と共に入水しました。
また、神鏡は大納言典侍局という平家の女性が抱えて入水しました。
しかし勾玉と神鏡(八咫鏡)は空気が密閉された唐櫃(木製の入れ物)にはいっていたために浮かび上がり、義経軍に回収されたといいます。
宝剣「草薙の剣」はついに発見される事はありませんでした。
この3つの神器(宝剣と勾玉、神鏡)は皇位継承の際に代々受け継がれてきた「秘宝」中の秘宝
大事なことは前の天皇から次の天皇へ受け継ぐということ、つまり皇位継承を正当化する象徴となっていました。
吾妻鏡によれば、草薙剣は、見つからなかったってことになっています。
皇居の神剣は、ザックリ言えば、レプリカだってことになっています。
すでに神器なしで後鳥羽天皇を即位させていた後白河法皇は、宝剣紛失を鎌倉幕府(源頼朝)への大きな貸しとした上で、伊勢神宮の別の宝剣を新たな神器として奉じました。
現在伝わる宝剣はこの剣であると伝わります。
後鳥羽天皇は三種の神器が揃わないまま即位することになったため、治政を行う上でハンディとなり、その反動として内外に対して強硬な政治姿勢を示し、それが「承久の乱」の遠因となります。
その後1210年、伊勢神宮から献上された剣を新たに草薙の剣としましたが、南北朝での奪い合いや、江戸時代の盗難事件など、現在熱田神宮にあるとされる草薙の剣も実在が怪しまれています。
紛失後20年ほどは清涼殿の御剣・昼御座(ひのおまし)剣で代用し、承元4年(1210)に順徳天皇が即位した時、伊勢から新たに剣を奉って宝剣としたという記録があります。(鎌倉初期の順徳天皇著「禁秘抄、きんびしょう」による)
要するに、しばらくの間は代用品で急場をしのぎ、伊勢から持ってきた剣を新たに宝剣としたことになります。
ちなみに草薙剣(天叢雲剣)は2本あったといわれています。
東征を終えた日本武尊(第12代・景行天皇の皇子)は熱田で宮簀姫(みやずひめ)この草薙剣を渡し、宮簀姫は熱田神宮を建ててこの草薙剣を祀ったとされています。
そして朝廷に伝わったとされる「草薙剣」ですが、第10代・崇神天皇が神器と一緒にいるのは畏れ多いと剣の模造品を鋳造し、これを護身のため宮中に置いたといわれます。(朝廷の神官・斎部広成著「古語拾遺」の記述)
この記述がもし事実とすれば、行方不明になったのは「草薙剣」の模造品ということになり、本物の「草薙剣」は海中に沈んでいないことになりますが。
また、壇ノ浦から都まで神器を運ぶ道中に、役得だと神鏡を見ようと唐櫃を覗き込んだ武士が居ましたが、たちまち眼が眩み、鼻血を出したといいます。
ただ、海に沈んだ宝剣「草薙の剣」はそもそも実物ではなく形代(レプリカ)で、実物は熱田神宮にあるという説もあります。
誰も(天皇ご自身でも)見てはいけないとされ「見えないけれどもある」ということになります。
熱田神宮は、源頼朝の母の実家です。平家は滅ぼしたけど神器はなくしましたでは面目が立ちません。
ちなみに三種の神器とされる
八咫鏡(やたのかがみ)
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
ですが2つは神様になっています。
剣は伊勢神宮の内宮のご神体です。
鏡は熱田神宮のご神体です。
実物は曲玉しかないことになります。
でも、明治時代に三種の神器を持っていたから南朝が正統だと言ってしまったため、明治時代から昭和20年まで天皇が行幸すると一緒に三種の神器も移動しました。