「殿中でござる!」意味は?
忠臣蔵の松の廊下でおきた浅野内匠頭長矩と吉良上野介義央のいざこざの際の名セリフですが「殿中でござる!」意味は?
「殿中でござる!」意味は?忠臣蔵の松の廊下で浅野内匠頭長矩と吉良上野介義央
松の廊下で、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央へ刃傷に及んだ際、浅野を取り押さえた梶川 頼照(かじかわ よりてる)の言葉「(刃物を抜くのが禁止されている)殿中でございます。」です。
江戸時代、殿中(江戸城内)で抜刀すると、理由如何によらず、切腹でした。
そのことを思い出させて、冷静にさせようとしたって所でしょう。
まあ「ここは江戸城だぞ!落ち着け!」って感じ?
ちなみに、「殿中でござる。」という言葉は将軍の居城など格式の高い場に応じてない相手に対し使われます。
・服装が場所にそぐわない。
・言葉遣いが不謹慎。
・大声で話すまたは笑う
・所作が型どおりできていない。
場所柄にふさわしくない言動があれば、「殿中でございますぞ」と注意されます。
ちなみに、浅野内匠頭長矩の「武士の情けじゃ、お離しくだされ梶川殿」とは梶川与惣兵衛のこと。
偶然その場に居合わせ、浅野内匠頭を取り押さえたことで知られています。
殿中でござる(忠臣蔵)は梶川頼照のセリフ
忠臣蔵では「殿中でござる」と言ったのは梶川頼照だとされています。
梶川頼照は、江戸時代前期の旗本です。生年は1647年、没年は1723年です。
頼照は、土岐頼泰の次男として生まれました。母は山岡伝右衛門景重の娘です。
頼照は、明暦3年(1657年)に将軍徳川家綱に拝謁し、寛文3年(1663年)から御書院番として出仕しました。寛文4年(1664年)には姉が嫁いだ梶川分重の養子となり、家督を継ぎました。
頼照は、元禄9年(1696年)に本所奉行に就任し、元禄10年(1697年)には御腰物奉行頭、元禄13年(1700年)には大奥御台所付き留守居番となりました。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城大廊下で浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、長矩を取り押さえました。この手柄で3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となりました。
頼照は、宝永4年(1707年)に西城持筒頭に就任し、正徳元年(1711年)に槍奉行に選ばれました。享保4年(1719年)に職を辞し、享保5年(1720年)に隠居しました。
なお、彼は日記を残しており、その日記には忠臣蔵の事件の詳細が記されています。
浅野内匠頭殿が吉良殿に刃を向けた際、梶川頼照はその場にいて、出来事を目撃しています。
浅野内匠頭殿が吉良殿に斬りかかった後、梶川頼照は浅野内匠頭殿を制止し、その場にいた人々と一緒に浅野内匠頭殿を取り押さえました。
そして、その後の出来事や浅野内匠頭殿の言動などを日記に記録しています。
松の廊下(忠臣蔵で「殿中でござる」の舞台)とは?
忠臣蔵で「殿中でござる」の舞台となった松の廊下は、江戸城内にあった大廊下のひとつです。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下で、廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松の廊下と呼ばれていました。
この廊下は、幕府の権威を示す特に重要な儀式が行われる場であり、この廊下の先にある白書院も、大広間の次に格式のある部屋でした。また松の廊下には御三家や加賀前田家、越前松平家等の殿席があり、儀式によってはこの廊下で行われることもありました。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)午前10時頃、この廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家肝煎の吉良義央に斬りつけた事件が起こりました。この事件は、松の廊下刃傷事件と呼ばれています。
まとめ:「殿中でござる!」意味は?
「殿中」とは江戸城、特に将軍の御殿の中という意味です。
将軍の住まいである殿中で抜刀するのは謀反に相当するので厳禁でした。
江戸城内に入ることを許される旗本・大名は脇差を帯びたままで良いことになっていました。ただし、抜刀どころか「鯉口三寸」つまり刀を鞘から三寸出しただけでアウト。
家は断絶、本人は切腹です。
「忠臣蔵」は史実をもとにした武士の敵討ちの物語で、事件が起きた江戸時代にはもうお芝居にされて歌舞伎などで上演され、平成の初め頃まではテレビでもお正月の特番ドラマで毎年のように放送されていました。
「殿中でござる」のセリフは、江戸城の中で武士が裃(かみしも)という、裾がとても長いハカマをつけた状態で叫ばれるセリフです。ハカマの裾は踏まれた状態です。