江角悠太wiki経歴|家族・父は?元ヤン医師が志摩市民病院でアンビリバボー

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江角悠太さんは志摩市民病院を若くして立て直したことで業界でも一目置かれる存在となった医師。

病院経営が破綻寸前だったいう志摩市民病院を危機的状況から救った江角悠太さんや志摩市民病院の逆転劇はNHKやフジテレビ「アンビリバボー」などでも紹介されています。

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江角悠太wikiプロフィール

名前:江角悠太(えすみ ゆうた)

生年月日:1981年

年齢:41歳

出身地:東京都練馬区

出身高校:都立西高校

出身大学:三重大学医学部

所属学会:日本プライマリケア連合学会、全国自治体病院協議会、国保診療施設協議会

資格・免許:大型自動車免許、PADIレスキューダイバー、家庭医療専門医、指導医

江角悠太さんは大学の医学部を卒業後、沖縄県中部徳洲会病院での初期研修を修了を経て三重県内の地域基幹病院・大学病院で研修。

その間にはピースボート船医も経験しています。

志摩市民病院にやってきたのは2014年冬のことで2年間不在だった内科医として着任するとやっと医師の人数が合計4名となったものの、

2016年春にはなんと新しく着任した1名を除いた3名が退職するという危機的状況に立たされることになりました。

■江角悠太の略歴
2009年 三重大学医学部 卒業
2009年 沖縄徳洲会 中部徳洲会病院 初期研修
2009年 離島研修(宮古島、徳之島)
2011年 三重大学家庭医療学総合診療科 後期研修
2011年 亀山市立医療センター 内科
2011年 三重大学医学部付属病院救命救急センター
2011年 名張市立病院 内科
2011年 県立一志病院 家庭医学科
2014年 PEACE BOAT(Ocean Dream号)客船医
2014年 国民健康保険 志摩市民病院 内科
2016年 国民健康保険 志摩市民病院 院長

江角悠太の経歴

江角悠太さんが派遣された当時の志摩市民病院は毎年7億円の赤字を垂れ流す「ダメ病院」。

働き始めてからわずか2年後の2016年4月には院長に就任していますが、「どんな患者も絶対に断らない病院」という改革を実行したった4年生で黒字にするというVじ回復を果たしています。

救急外来の連絡を受けてもこれまでは「専門の医師がいない」という理由で断ることも多かった中「とにかく断らず、自分に回してくれと」と患者の受け入れを積極的に断交。

人手不足で実施できなくなっていた「夜間救急」は三重大学などの医学部生を中心とした研修生の力を借り、
病院に研修にきていた医学部生たちは自発的に夜間救急サポートチーム「しまうま」を立ち上げています。

こうした努力の結果、患者さんや地域の住民から信頼されるようになり、減る一方だった来院者数も徐々に増えるに伴い職員のモチベーションが上がる好循環が出来上がるようになります。

最近では地元の中学生や高校生を研修という目的で病院実習に招き、一緒に回診させると患者も元気になるという新しい試みもしています。

そんな江角悠太さんのこれまでの奮闘ぶりがテレビ番組でも紹介されました。

■アンビリバボー放送内容
元ヤン医師が挑む病院再建!

三重県志摩市にある公立の総合病院、志摩市民病院。今から8年前、三重大学附属病院の総合診療科から、一人の新人医師が派遣されてきた。だが、奇妙なことに直面する。なぜか患者が少なかったのだ。志摩市民病院は、公立の総合病院だったが、過疎化で人口とともに医師も減少。やがて派遣されて1年で医師が自分一人だけになってしまった。しかし彼は志摩市民5万人を幸せにして世界平和を実現する、という大きな夢を掲げ、志摩市民病院の再建を決意する!
https://www.fujitv.co.jp/unb/

■逆転人生「過疎地の病院を救え 新米医師の奮闘」
大ピンチ!赤字経営で地方の病院が潰れる?危機にひんする日本の地域医療に希望をもたらす逆転劇。医師・看護師が一斉退職した過疎地の病院。再建を任された新米院長の奮闘
番組内容
医師・看護師が一斉退職し、住民からの信頼も失った三重・志摩の市民病院。再建を託されたのは、新米医師だった江角悠太さん。エリート医師の父に反発して荒れた学生時代を送ったが、東日本大震災でのボランティア経験を通して地域医療に身を捧げると決意。「どんな患者も断らない」をモットーに、徐々に病院を立て直していく。だが医師不足や赤字経営は深刻で、再び存続の危機に。その時、予想外の助っ人が現れた。感涙の物語。
https://tver.jp/episode/78514167

江角悠太の高校や大学など学歴は?

江角悠太さんの通っていた高校大学は次のとおりです。

出身高校:都立西高校

出身大学:三重大学医学部

都立西高校は都内でも屈指の進学校で知られる学校で、東大や早稲田慶応に数多くの合格者を送り出しています。

ただ江角悠太さんは入学こそできたものの、授業をろくに受けず成績は下から数えたほうがずっと早い状態で麻雀やバイクに明け暮れています。

修学旅行で旅館の絵画を麻雀台に使って、無期停学になるなどやんちゃばかりして退学寸前だったという元ヤンぶり。

そんなすさんだ生活をしていた江角悠太さんにとって転機となったのは、高校3年の春にたまたま観た映画『パッチ・アダムス』でした。

主人公のパッチ・アダムスは実在の医師をモデルにしており無料で医療を受けられる病院を設立し笑いと愛情で患者を幸せするといった内容。

両親や祖父母から言われ続けてきた「お前の人生はお前のためにあるんじゃない。人のために使いなさい」というお説教がパッチ・アダムスと強くリンクしたそうです。

遅れていた勉強を取り戻すにはただ時間がかかり、結局は二浪もしたものの、親の「医学部に進むのなら国立大じゃなきゃダメだ」という約束と、もともと海が好きだったということで三重大医学部に進学しています。

江角悠太さんが「医局派遣」でやってきた。志摩市民病院に着任したのも東京出身ながら大学で世話になった三重県への恩返しの気持ちを持っていたそうです。

医師が足りない地方の病院へ、医局が医師を派遣する仕組みで、この地に骨を埋める覚悟を持ち、病院から海が近いので趣味のサーフィンも楽しんでいるそうです。

江角悠太の家族は?父親の仕事は?

江角悠太さんの実家は父方の家系を遡さかのぼると9代目の医師。

父親は医学研究者で母も医科系の博士号を持つまさに医者の一家で育ったサラブレットではあるものの、
子供の頃は不在がちの両親に代わって小学4年生に上がると、共働きで家に帰らない両親の代わりに7歳年下の弟の世話をするなど、あまり医者という職業に対して良い感情を持っていなかったそうです。

医者には絶対になりたくないと思うようになっていたそうです。

「リーダーシップはあるけど、自分勝手」なジャイアンタイプだったことから友達とケンカしたり、問題を起こしたりで、親が学校に呼び出されることもあったそうです。

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