源氏と平氏の違いは?

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源氏と平氏にはどんな違いがあるんでしょうか?

源氏と平氏どちらも平安時代の貴族たちの武力として力をつけた武家の棟梁ですが違いは?

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源氏と平氏の違いは?

源氏と平氏の違いについて、源朝臣とは主に天皇の子や孫の世代が臣籍降下するときに与えられた姓、平朝臣は主に天皇のひ孫の世代が臣籍降下する時に与えられた姓です。(もちろん例外もあります)

血縁的な違いで言えば、まず平氏は桓武天皇の系譜なので桓武平氏とも呼ばれます。

そのうち伊勢に進出した一族は伊勢平氏と呼ばれ、この一族は「院の近臣」として中央政界に力を持つようになります。有名なのは平清盛です。

源氏ももとは天皇家の出で、姓をもらって源氏になったため、多賀源氏、村上源氏など様々な家がありますが、有名な源頼朝、義経らは清和天皇の系譜の清和源氏で、源氏の中では清和源氏が最大勢力だったようです。

従って源氏の方がより高貴と言えますし、一般的に格も諸源氏のほうが上です。

さらに、諸源氏からは嵯峨源氏の源常(みなもとのときわ。左大臣)を初めとして数え切れないほどの大臣を輩出しているのに対し、平氏の大臣は平清盛(太政大臣)・重盛・宗盛(二人とも内大臣)の三人のみです。

公家の平氏は高くて大納言であり、大臣まで昇った人はいませんでした。

また、源氏が全部で21種類あったとされるのに対し、平氏はわずか4種類でした。

以上のことから、源氏のほうが平氏より格上とされていたことが分かるでしょう。
*臣籍降下というのは、皇族の人が姓を賜って皇族ではなくなり、臣下の身分に下るというものです。

なお、全ての源氏中最高の名門とされるのは村上源氏ですが、これは源氏初の太政大臣を輩出した源氏であり、また村上源氏嫡流の久我家は、家格は清華家筆頭で、藤原北家摂家流に次ぐ、日本全国でも有数の超名門という家柄を明治維新まで維持し続けていました。

明治維新で活躍した岩倉具視の岩倉家は久我家の分家です。

ちなみに、源氏の中に親王・内親王だった人は一人もいません。
また、源氏・平氏は基本的に公家です。武家はごく一部の系統のみです。

というのは、最初の源氏である嵯峨源氏が誕生する時、嵯峨天皇の詔で、「既に親王号・内親王号を許されている人は臣籍降下してはならない」と決められたからです。

従って最初の源氏である源信や源潔姫らは元は「王」「女王」だったと思われます。

これは、臣籍降下が行われる前に亡くなったと思われる、嵯峨天皇皇子の「淳王」という人の存在からも分かります。

嵯峨天皇の子で源氏でない人の中では唯一彼だけが親王号を名乗っていません。

つまり彼は最初から親王号を許されてはいなかったということです。

おそらく臣籍降下する予定だったんでしょう。

源氏平氏では全体のごくごく一部の系統のみが武士化し、その武士化した系統が後世非常に栄えたので、源氏平氏といえば武士というイメージがついてしまいましたが、正確には源氏・平氏は普通は公家となるでしょう。

有名な『源氏物語』の光源氏も臣籍降下して源朝臣を与えられた人ですが、もちろん武士ではありません。

ちなみに、源氏と平氏ではなく、なぜ源氏と平家なのかというと、「氏」というのは、血族集団全体を指します。

「家」というのは、文字通りお屋敷のこと、つまり、都のしかるべき屋敷に一緒にすんでいる一族(親兄弟などごく近い親族)を指します。

「家」がつくのは、すなわち貴族というニュアンスです。

だから「平氏」と「平家」は違います。

全国に散らばった桓武天皇の子孫の武士たちはみんな「平氏」ですが、そのなかで京都で出世して貴族になってしまった家族、つまり平清盛の近親者のみを「平家」と呼ぶんです。

関東武士の北条や三浦は、平氏ではあるけど平家の一員ではありません。

まとめ:源氏と平氏の違いは?

天皇の息子や孫は何もしなければ「皇族」ですが、そのままではどんどん増えて国で養いきれません。

そこで、臣籍降下させて自活させようと、これは大昔からずっと行われていましたが、平安時代のはじめ、桓武天皇の頃までは、その都度いちいち名前を考えていました。

橘、高階、清原、在原など主に、先祖の天皇の通称に因んでつけらます。

たとえば清原氏は「飛鳥浄御原のみかど」つまり天武天皇の子孫。「原」がつくのが多いのは、都の名前が「×原宮」という名であることが多いからです。

そんな中、嵯峨天皇(桓武天皇の子)は、沢山の子供を作り、そのうち皇太子と数人の皇子をのぞき全員一律に「源」の姓を授けて臣籍降下させました。

ひとりずつ名前を考えてやらずに全員同じにしたのは、「おまえたちのミナモト(起源)は一つなのだぞ」ということで、彼ら兄弟がまとまってひとつの一族となって、藤原氏に対抗する勢力になって欲しいと考えたからだと推測されます。

つぎに嵯峨天皇は自分の兄弟の子(つまり甥たち)、またはその子たちをも臣籍降下させ、彼らにはまとめて「平」の姓を与えます。

彼らはみんな桓武天皇の孫やひ孫ですから、桓武の作った「平安京」にちなんだ姓としたのです。同様に「みな桓武天皇の子孫である、天皇家の一族であることを忘れるな」ということですね。

これ以後の平安時代の天皇はみな、次男以下など「皇位継承の可能性のほとんどない皇族」を臣籍降下させるときに、新しい名前の考え出すことをせずに、「源」か「平」にしてしまうようになります。嵯峨天皇の前例にならって、「天皇の子供は源、天皇の孫以下は平」が最初ころの原則となっていきます。

そのうち「源」がメジャーになったため、臣籍降下するものはぜんぶ「源」になってしまいました。

というわけで、「源」も「平」も、いろんな天皇から分かれたもので、すべてが同じ一族というわけではありませんし、日本史上で「源氏」チームと「平氏」チームで競争していたわけでもありません。(むしろ平安前期には「源・平チーム」と「藤原チーム」で抗争していたとはいえますが)。

ときどき「東の源氏、西の平氏」みたいな言い方がされますが、これはいずれもそれぞれのいちばん目立つ一族についてそう見えるだけです。

「治承の争乱」は「源氏」と「平家」とが戦ったということで「源平合戦」といわれるわけですが、実は源頼朝のもとに馳せ参じた主な関東武士は「北条」も「三浦」も平氏の子孫です。

当時そのことを誰も不思議にも不義理にも思っていません。だから、日本中が「源氏」と「平氏」に分かれて戦ったわけではありません。

当時、関東武士団が担いだ流人上がりがたまたま「源氏の跡継ぎ」で、対する中央政府を牛耳っていたのがたまたま「平家」だっただけです。

なお、源頼朝が鎌倉に居を構えたとき、まっさきに京都の石清水八幡宮から勧請して「鶴岡八幡宮」を建てたのは、自らの姓の由来からして当然です。

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