鎌倉時代の北条氏について子孫はどうなっているんでしょうか?現在の北条家当主は?
執権北条氏の子孫となると鎌倉幕府崩壊とともに北条氏は滅びましたが、血筋は今も続いているのですか?
現在も後北条氏の子孫は家系図は続いているんでしょうか?
鎌倉北条氏(得宗/執権)の子孫は?
執権北条氏の子孫について、北条氏最後の当主北条高時の嫡男の邦時は幕府滅亡時に逃走するも新田義貞に攻められて捕まり9歳で処刑・一族郎党自害されています。
次男の時行は信濃に逃れて、後に中先代の乱を起こして幕府再興を狙い、一時鎌倉を占領しましたが足利尊氏に敗れてしまいます。
時行は何とか逃げ出して流浪し、後にかつての仇である後醍醐天皇に降伏して臣下となり足利尊氏と戦いますが、やがて敗れて捕らえられて斬られます。
時行は尾張あたりに数年いてこのときに尾張に子孫を残したといい、幕末の思想家・横井小楠はこの北条時行の子孫であるといい、北条平四郎時存とも名乗っていました。
その子孫は教育者の血筋だろうで、現在の子孫の方は大学教授(音楽系)だそうです。
熊本藩士の儒学者・横井小楠は本姓は平氏で、北条時行の子孫(桓武平氏北条氏嫡流得宗家)を称していたそうです。
北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまりとされています。
この横井小楠さんの息子さんが政治家の横井時雄さん(故人)で、その横井時雄さんの孫にあたるのが、現在、神奈川在住で画家の井上浩郷さんです。
また鎌倉武士は「本家の嫡流以外は苗字を変える」というめんどくさい習慣があってこれが後の世の研究者の頭を混乱させています。
ようするに総本家の嫡流が絶えてしまうと、誰が誰の子孫だ判りにくくなってしまうのです。
北条の分家でも「赤橋」「大仏」「名越」「極楽寺」「金沢」などなどの分家があって、その分家の多くは幕府滅亡時と中先代の乱の時に滅亡し、本当に子孫か判らないまた別の苗字の「自称子孫」が乱立する状態となったようです。
得宗ではなく北条一門ということであれば、これだけの家があります。
桜田氏、名越氏、赤橋氏、普恩寺氏、常盤氏、塩田氏、伊賀氏、金沢氏、大仏氏、佐介氏、甘縄氏、規矩氏、糸田氏、極楽寺氏
もっとあるかもしれませんが全部、鎌倉の北条氏でルーツは初代北条時政です。全国に守護職として拡散しましたから子孫は当然いるでしょう。
後北条氏の子孫は?
北条早雲から始まる後北条氏の直系は、最後の当主氏直(5代)に実子の跡取りがなかったので滅んでしまいましたが、氏康(3代)の五男・氏規の系統が徳川家康に仕えて江戸時代には河内・狭山藩主として存続します
この家系は明治になってからも子爵となって存続し、現在も続いています
北条尚という人が当主(桓武平氏高望流)で1932年生まれなので、2022年時点でご存命なら90歳ぐらいのはずです。子息の伸作氏は1969年生まれ。
後北条氏の直系ではありませんが、初代・早雲の三男で、北条氏5代全てに仕えた幻庵の曾孫・お万の方は徳川家康の側室で、御三家の紀州家の祖・頼宣と水戸家の祖・頼房の実母です
頼宣の孫・吉宗は8代将軍となり、14代将軍まで全て吉宗の子孫ですから、吉宗以降に将軍の子弟を養子に迎えたりした子孫は全て、早雲(初代)の子孫です
引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1280337027
例えば、蜂須賀家(阿波藩主→侯爵家)は11代将軍・家斉の実子が養子→当主となったので、現当主・蜂須賀正子氏は後北条氏の子孫です
最後の将軍・徳川慶喜も水戸徳川家の頼房の子孫ですから、その子孫の現・徳川(慶喜家)当主・慶朝氏も後北条氏の子孫です
徳川宗家の現当主・徳川恒孝氏も後北条氏の子孫です
又、御三家の内、残る尾張徳川家も吉宗の子孫の将軍家や水戸徳川家の血筋が入って来たので、養子の血筋の当主の本家以外は後北条氏の子孫です
他にも吉宗の孫に当たる松平定信の久松松平家(桑名藩主→子爵)、同じく定信の実兄が養子となった久松松平本家(松山藩主→伯爵)、定信の子や孫が養子になった真田家(松代藩主→伯爵)、板倉家(備中松山藩主→子爵)なども、詳しくは知りませんが、血縁のある当主や子孫がご存命なら全て後北条氏、早雲の子孫という事になります
また、3代氏康の娘は今川氏真に嫁ぎ、その実子・実孫が跡を継ぎます
今川家は徳川氏に仕えて江戸期には幕臣となりますが、全て氏康の子孫です
しかしながらこの今川家は明治時代に断絶してしまいます
ただし。。。
氏康の娘と今川氏真の孫娘は高家・吉良家に嫁ぎ、その孫が「忠臣蔵」の吉良上野介です
上野介義央の息子・綱憲は上杉家に養子に入って米沢藩主になります
以降の米沢藩主は全てその子孫です
米沢上杉家は何度も断絶の危機を迎えますが、明治に伯爵として存続し、現在の当主は宇宙工学者として有名な上杉邦憲氏です
北条氏康の子孫です
ちなみに、鎌倉時代の北条氏と北条早雲は関係はありませんが 役職や権威を威光させて室町幕府の鎌倉府、または執権北条氏の成り代わりであると歌った事により 北条氏を名乗ったと思われます。
北条氏を名乗る前は 伊勢氏であり元々 朝廷の高官で 早雲の姉 北川殿は 高家 今川氏忠に嫁ぎ、北条氏綱の嫁は 太政大臣 近衛尚通の娘です。 今川氏と伊勢氏は 主従関係であり 元々関東の乱を鎮圧するために送られた堀越公方が失敗し伊豆に駐屯し悪政を続けていたのを好機とみて
今川氏の力を借りて鎮静化し独立 更に 堀越公方の変わりに関東エリアを鎮静化と共に 関東武家社会の擁立を悲願として まず山内上杉に与力する大森氏の相模の小田原に進出しながら 相模の領土を次々に手にいれます。
伊勢氏綱は 朝廷の認可を受けて 北条氏と名乗り関東で争いを続けていた 両上杉は 幕府の賊であると大義名分を放ったのです。 また北条氏綱のもう一人の嫁は 北条氏の末裔とも云われる横井家の出身ともあり北条を名乗ったという説もありますが 朝廷や今川氏と近い サラブレットの血統と 関東の乱を鎮圧するために 鎌倉府や執権北条氏の成り代わりであるとした きっちりした大義名分やマニフェストが 絶大な効力を発揮し 民や豪族が味方についたのは 云うまでもありません。しかし ただそれだけでもなく 北条氏綱は その鎌倉や箱根等の神社の修改築や寄進等も丁寧に行い
里見氏の奇襲により焼け落ちた鎌倉鶴岡八幡宮の再建をしています。鶴岡八幡宮は 関東武家の聖地でありますが この完成式典には 上杉は来ませんでした。 しかしいろいろあるのですが 後の長尾輝虎(上杉謙信)は 関東管領の就任式の際に 鶴岡八幡宮にて儀式を行っています。