第1次護憲運動と第2次護憲運動の違いは?簡単に分かりやすく

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第1次護憲運動と第2次護憲運動にはどんな違いがあるんでしょうか?

大正デモクラシー(吉野作造)の本格的な出発点となったのが第一次護憲運動ですが、第2次護憲運動の違いは?

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第1次護憲運動と第2次護憲運動の違いは?簡単に分かりやすく

護憲運動は憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれています。

そもそも(憲政)護憲運動とは、大正時代におこった立憲(政党)政治を擁護する運動です。政治の実権を藩閥政府から政党の手に移すことを目指した運動です。

第一次護憲運動は大正政変とも呼ばれています。大正デモクラシーや普選運動に続く流れを作った。

第二次護憲運動は普通選挙法や治安維持法などが制定されました。

第1次護憲運動と第2次護憲運動の違いは?

■第一次護憲運動・・・1912年
長州閥の第三次桂太郎内閣に対して、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が協力して閥族打破(藩閥中心の政府を打破する考え)と憲政擁護(憲法にそって政治をする考え)を唱えて起こした運動のことです。

尾崎行雄と犬養毅は憲政擁護会を作り全国各地では、憲政擁護大会が開かれるようになり、桂内閣に反対する暴動が相次ぎ、最終的に、桂内閣は総辞職することになります。
これは、明治憲法の下で、国民によって内閣が倒された唯一の例です。

■第二次護憲運動・・・1924年
清浦奎吾内閣(きようらけいごないかく)が貴族院を中心に成立すると、憲政会・政友会・革新倶楽部の3派(ぱ)が政党政治を主張して対抗し、加藤高明内閣を実現しました。

現在の憲法では、国会が内閣総理大臣を指名することが法律できめられています。 明治憲法では、必ずしも国会与党から選出されず、国会議員でなくてもよかったのです。

内閣総理大臣は天皇からの大命降下(命令)によって組閣(内閣総理大臣の任命)を命じられます。その人選は「元老」や「重臣」と呼ばれる首相経験者などの推薦を経て任命される事になっており、大正末期から昭和初期の政党内閣時代においてさえも、あくまでも総選挙の結果を参照した元老の推挙によって政党党首への大命降下が行われたのです。なので、民意を反映した政治が行われていたとはいいにくかったのです。

第一次護憲運動では薩摩や長州といった特定の藩閥、官僚、華族といった一握りの人びとによって政治が牛耳られる状態を打破して、民意の尊重・民衆の政治参加を求めようとしていた背景があります。

桂太郎内閣当時は、桂を含めた元老と呼ばれる6人の明治維新の功労者の老人たちが実質的に国の方針を決めていました。主に薩摩と長州の志士たちの成れの果てです。

元老という地位は大日本帝国憲法に規程のない地位で、彼らは憲法の外側から権力という力だけで国を操作していました。

自由民権に目覚めた市民はこの、超法規的な元老の支配を打破し、憲法に基づいた政治をするように求めました。

市民は桂の辞任を求めましたが、政府がこれに応じないため、国会議事堂に押し寄せたり、役所や政府寄りの新聞社を襲撃したりしました。

収拾のつかなくなった桂内閣はようやくここで退陣します。

第二次護憲運動が生じた直接のきっかけは、1924年1月に清浦圭吾内閣が成立した際に政党勢力が反発したことです。

清浦内閣が反発を招いた理由は以下の2つです。

当時は政党政治の流れが一時後退、非政党系内閣が続いていたという状況のため

清浦内閣は貴族院議員を中心に組閣、政党政治家が1人も入閣していない「超然内閣」となったため

第二次護憲運動が展開された結果、護憲三派内閣が成立し1932年に犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、政友会と憲政会(のち立憲民政党)の総裁が交互に組閣するようになります。

この状態は「憲政の常道」と呼ばれ、衆議院の最大多数党の党首が政権を担当、失脚した場合は次の多数党に政権交代する慣習が定着。

1924年6月に改正した「衆議院議員選挙法」が「普通選挙法」となります。

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