映画「ゼログラビティ」でマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)はやはり死亡?
あのあと遺体は回収されたりはしないんでしょうか?
ライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)を助けるためにマットが犠牲になって宇宙空間に流されましたが、あのシーンで本当にマットは犠牲になるしかなかったのでしょうか?
ゼログラビティでマットは死亡?その後・ライアンは?
映画「ゼログラビティ」でマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)は、あの後どうなるかは、彼が離脱した初速に依存します。地球の重力を振り切るものであれば、宇宙のもずくと化すでしょう。いずれにせよ、返事が無かった時点で、酸欠でもう死んでしまったのでしょう。
あの程度の噴射で第2宇宙速度を超えることは不可能なので、遺体は地球の周囲を公転し続けます。
そのうち徐々に大気でのブレーキが効いて大気圏突入になります。違いは時間がどれくらいかかるかだけで結末は同じです。
ちなみに、映画の設定ではハッブル宇宙望遠鏡を修理していたので高度560km程度 ところがISS(国際宇宙ステーション)へ行ったので高度370 kmまで降りたようだ。あのあたりが現実ではあり得ない設定で、速度が違うので船外活動のMMU程度の推力では移動も乗り移りもできません。
仮にISSと同じ高度であれば大気圏突入まで数年といったところでしょうな。
まとめ:ゼログラビティでマットは死亡?その後・ライアンは?
ボールを投げると放物線を描いて地面に落ちるでしょう。
宇宙ステーションや人工衛星などはいわばあれと同じ状態です。無重力だから浮かんでいるのでなく、地球という地面が球形だから、落ちながら落ちない、空気抵抗のない等速運動をすることでつかづ離れずの状態を保っているのです。
ですのでマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)がどういう状態かによるでしょう。同じ高度(地球との距離)でもスピードが遅ければ落ち、速過ぎれば宇宙空間に放り出されるということです。
原題の「グラビティ(重力)」は邦題の「ゼロ・グラビティ(無重力)」とは全く違う意味になります。
実はこのタイトルにはいくつかのテーマが隠されています。娘を失い、生きる希望(命綱)を失って帰る場所を探す様にドライブを繰り返す(無重力のように彷徨う)サンドラが人生の生きる意味を見直し、自らの人生に向き合う事に回帰していくという、宇宙からの脱出に則したもう一つのテーマがそれです。
重力には引き戻す、引きつけられるという意味もあります。転じて「回帰」「再生」、原題にはそういう意味が含まれています。
つまりジョージの幻覚も物語のテーマの構成と完結には不可避ですし、ステーションに行けずに死んでしまっては「回帰」と「再生」のテーマが成就しません。
質問者さんのおっしゃる構成もある意味劇的ですが、そこで終わらせるためにはそれに至る過程でプロットを変更しないといけなくなります。つまり、整合性の問題です。