「平家にあらずんば人にあらず」とは?
平家物語などに出てくる平時忠(平清盛の義弟)のセリフとされていますが「平家にあらずんば人にあらず」の意味は?
平家にあらずんば人にあらず意味は?
「平家にあらずんば人にあらず」とは清盛の妻時子の異母弟・平時忠の言葉。
『平家物語』からの出展ですが、現代語訳では『この一門にあらざらん者は、みな人非人たるべし』となっています。
平家が権力をもっていて、それ以外(例えば源氏)にはまったく力がない状態を、平家にあらずんば人にあらずといったのです。
平家が天下を取った時代にその権力・特権階級を表現するために言われたとされてます。
平家でなければ人間とは言えない、源氏は人間以下だと言うことです。
まとめ:平家にあらずんば人にあらず意味は?
平時忠は仁安元年(1166年)6月、清盛は正二位に昇叙し、二条帝の後に即位した六条天皇の皇太子に憲仁親王を据えることに成功、11月には内大臣に任じられた。
翌二年2月、左・右大臣を経ずに、従一位・太政大臣に昇り、清盛は位人臣を極めるのです。5月には病を理由に辞任し、三年2月に大病を患った後出家し、浄海と号した。以後、福原(神戸)に引きこもることが多くなり、采配を重盛に委ねる。但し、【入道相国】と称され実権は清盛が握っていた。
この頃、平家一門は、公卿16人、殿上人(てんじょうびと/五位以上で天皇の日常生活の場である清涼殿へ昇ることを許された者)30余人、知行国30余国を数え、栄華の絶頂にあったのです。
「平家にあらずんば人にあらず」とはこの頃に平時忠が言った言葉です。
しかし、わずか10年後の1181年には、清盛は熱病で倒れ、『あた(熱い)、あた』と苦しみもだえ『仏事や堂塔建立などは不要。頼朝の首を切り墓前に供えよ』と遺言しながら死んでいる。
ただ「平家にあらずんば人にあらず」の出典元「平家物語」はそもそも、誰が作者かは諸説あり、創作だった可能性はあります。
元ネタは、中国の「史記」です。
前漢王朝の初代皇帝である高祖・劉邦が天下統一の功臣の多くを粛清して、その封土に劉氏一族を送り込みました。
結果、劉氏しか王になれなかったため、「劉氏にあらずんば人にあらず」と、その劉氏の誰かが放言したそうです。
平家物語の作者も、多分、史記を読んでいたのでしょう。