久松源三郎勝俊(松平康俊)wiki|長尾謙杜がどうする家康(大河ドラマ)

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久松源三郎勝俊とは徳川家康の母・於大と久松長家の子で松平康俊とも称されます。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では長尾謙杜(なにわ男子)さんが演じて話題となりましたがが、嵐の松本潤(39)が徳川家康を演じる

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久松源三郎勝俊(松平康俊)wiki|生い立ち

久松源三郎勝俊(松平康俊)は徳川家康の異父弟。於大の方と久松俊勝の間に生まれた3子(いわゆる「久松三兄弟」)の中子にあたる

久松源三郎勝俊(松平康俊)は久松俊勝の三男として誕生。母は水野忠政の娘・於大の方。永禄3年(1560年)3月、徳川家康(当時は松平元康)が俊勝の阿古居城を訪れた際、家康は同母弟である康元・康俊・定勝に会っている。『寛政譜』によれば、康元と康俊は同年の9歳であった[3][注釈 2]。家康は、3兄弟は同姓の兄弟に準ずるとして、松平の名字を許したという。

生年月日:天文21年(1552年)

死没:天正14年4月3日(1586年5月21日)または同年4月2日(5月20日)

改名:勝俊(初名)→康俊

主君:徳川家康

氏族:久松氏 → 久松松平家

父母:父:久松俊勝、母:於大の方

兄弟:久松信俊、一色詮勝室、康元、康俊、多劫姫、定勝、松姫、天桂院、女子

異父兄:徳川家康

妻:大村越前守の娘

子:松平勝政正室

養子:勝政

久松源三郎勝俊(松平康俊)も今川氏真の人質

永禄6年(1563年)、家康の命により今川氏真の人質として駿河国に赴く。永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河に侵攻した際、今川家に仕える三浦与一郎という者が武田家に転じたが、この際に康俊らを伴った。武田信玄は大いに喜び、康俊を甲斐国に送って警護の下に置いた。17世紀半ばに松田秀任が編纂した『武者物語』は、今川家家臣の「三浦与次」が今川家を裏切り、人質であった松平源三郎(康俊)と酒井左衛門尉(酒井忠次)の娘「おふう」を甲州に伴ったと記している。

元亀元年(1570年)11月、家康の手配によって甲斐国から下山路を経由して三河国に脱出することに成功した。しかし、山岳部を大雪の中で踏破したために、両足の指を凍傷で失った。家康は幼年時からの忠節を賞し、「一文字の刀」と「当麻の脇差」を与えた。

久松源三郎勝俊(松平康俊)の最後

天正11年(1583年)に駿河国の久能城を与えられる。天正14年(1586年)4月、久能において死去。享年35。没日について、『寛政譜』本文は4月2日を採用しているが、「今の呈譜」には4月3日という。墓所は遠江国敷知郡富塚村(現在は静岡県浜松市広沢2丁目10番1号)の西来院で、築山殿の墓域(月窟廟)と隣接する。墓石には「善照院殿泉月澄清大居士」の法名と「天正十四丙戌年四月三日」の文字が刻まれている。

正室(大村越前守の娘[注釈 5])との間に一女があるが、男子はなかった。康俊の死後、於大の方の願いによって、水野忠分(於大の方の弟)の子・松平勝政が婿養子として迎えられて跡を継いだ。子孫はのちに下総国多古に所領を得、大名(多古藩)になっている。

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