2004年に猛威を振るった台風第23号は、死者95名、行方不明者3名、負傷者721名という甚大は被害をもたらしました。
住家全壊907棟、半壊7,929棟など自衛隊を中心に救助活動も活発に行われていた中、水没した北陸観光バスでは絶望的な状況にもかかわらず乗客乗員なんと全員が奇跡の生還を果たしました。
北陸観光バス水没事件の発端は大型台風23号舞鶴・由良川氾濫
2004年10月20日(水)、兵庫県市町村職員年金者連盟豊岡支部の一行は、北陸観光のバスツアー「ふれあい親睦旅行」 に参加。
夕方5時過ぎに観光ツアースケジュールをすべて終えて、北陸観光バスは福井県の芦原温泉から兵庫県へ帰るところでした。
ツアー参加者の平均年齢は67才。
内訳は65歳以上の高齢者が35人、運転手1名と添乗員1名を合わせて37人が乗車していましたが、この日は、日本列島に大型の台風23号が静かに接近していました。
最低気圧940hPa、最大風速45m/sに達した台風23号は紀伊半島に上陸して近畿地方全体が暴風圏内に入ります。
天候はみるみる悪化激しい暴風雨が吹き荒れ、37人を乗せた北陸観光バスが走る京都府舞鶴市志高付近の国道175号にも雨水がどんどん溜まり始めます。
由良川が氾濫してしまったため、普段の由良川は川幅が約150mなのですが、この日はなんと川幅が3倍にまで膨らみ、由良川沿い一帯は水没。
夜8時過ぎ、そんな天候状態にも拘わらず状況を把握できていない北陸観光バスは帰路を急ぎます。
ところが前方を走っていた車が冠水。水は瞬く間に目の前を覆い、前後の車に挟まれてしまい北陸観光バスは身動きが取れず立ち往生せざるを得なくなります。
付近のトラックなども合わせて40台が身動きが取れなくなるという平地にも関わらず完全に孤立した状況に追い込まれるのでした。
北陸観光バス水没事件は看護師の機転が全員無事の要因に
後続のトラック運転手は救助後「道路が冠水を始めてからわずか15分ほどで胸まで水位が上昇した」と話しています。
北陸下降バスの乗客はひとまず水没した車内で待機をしますが、水位はどんどん高くなります。
水が車内に流れ込んできた時、まず座席のシートを外して浮き輪代わりにし増すが、
かといって、ほかに逃げ場はなく冷たい水の中を当てもなく泳げるほど乗客には体力も泳力もありません。
そこで、バスの屋根に避難することを決意すると車内にあったハンマーで窓ガラスを割ります。
体力のない高齢者でも屋根に上れるように、乗客が協力して社内のカーテンを結んでロープを作ると、2時間かけて順番に全員屋根の上に避難することに成功。
しかし風雨により体感気温は真冬並みの極寒。乗客の一人が大きなストールを持っていたので、みんなで一つになってくるまったそうですが、それでも雨に打たれ続けた高齢者たちは低体温症の危険性がありました。
風速20mを越えて、雨量が15mmの強い雨の中、バスの屋根は狭く、幅2.5m、長さ12mの細長いスペース。
乗客の押葉玉枝さん(68)は震える手で携帯電話にすがります。「早く助けにきてほしい」
おびえたような声と周りの人の恐怖も伝わり、自宅で電話を受けた夫の智さん(65)は胸を締め付けられます。
乗客はその日にあった初対面動詞でしたが、不安を和らげるため、いつの間にかお互いに自己紹介をはじめていました。
「みんな無事に生き返ろう!」と声を掛け合い、点呼を取り始めます。
ただ、それだけのことでしたが、見知らぬ者同士が、ともに生きようと励まし合う仲間になった瞬間でした。
しかしバスはやがて完全に水没。日付の変わった翌日の21日午前2時ごろ、屋根に立った状態でもへそあたりまで濁流が達します。
車内のカーテンをつないだロープを乗客は皆必死に握り流されないよう耐え続けます。
漂着した竹を気に渡して固定してバスが流されないようにしますが、使える携帯電話で救助を求め続けるものの、一台を残し、電池が尽きてしまいます。
待っても待っても救助はこない、携帯の電池もない・・・最悪な状況のなか、看護師経験のある乗客が午前3時頃、声をあげます。
ごうごうと流れる濁流のの中、何人かは肩を組んで「わっしょい、わっしょい」と声を出し、全員で「上を向いて歩こう」を歌い始めます。
歌詞の一部を「幸せはバスの上に」を歌い、寒さで強張った各人の手は、救出の際に動かないと困ることから『結んで開いて』も打ちます。
グー・パー、グー・パーの運動を励まし合いながら繰り返し、体半ばまで水につかりながら、体を寄せ合い、9時間もの間恐怖と不安に耐え続けます。
そして朝5時には完全に屋根には水が無くなってしゃがんでいたところついに夜が明けた午前6時すぎ、救助ヘリがやってきます。
バスの屋根で白い布を振る乗員乗客37人全員を発見します。乗客は誰1人、風雨に負けませんでした。
海上自衛隊や海上保安庁のヘリは、ロープをバスの上に降ろし、衰弱の激しい人から順に1人ずつ抱えて機内に収容。
救助活動では一番年齢が高く弱っていた人(88歳)から釣り上げることになりましたが、4~5m上がった時に手が上がってしまってベルトが外れて落下するというアクシデントもありました。
受け止めようとしたレスキュー隊の人も一緒に水の中に落ちるものの、助け上げて今度はレスキュー隊の人と一緒につりあがって行きました。
午前8時頃に全員の救助が完了。舞鶴市のヘリポートまで往復し、市内の病院へ搬送しました。
全般に低体温の症状がみられ、湯たんぽで暖を取ったり、点滴を受けたりしました。
奇跡の生還を果たしたバス乗客たちでしたが、バス乗客の家族も知らせを聞きほっとしました。
最高齢の乗客水島恒夫さん(87)の妻正恵さん(84)は乗り合わせた人に感謝しています。
「停電で情報が入らず、帰宅途中で水にのまれたと思って、電話の前で一晩中祈り続けた。バスの上に9時間以上も耐えていたとは…。他の乗客の助けがなければ、主人は生きていなかったでしょう」
田中五兵衛さん(79)の妻愛子さん(77)は「昨晩は仮眠をとる際も、帰ってくると信じて『お疲れさま』との書き置きを机の上に残した。帰宅したら、自分の口でしっかりと言葉をかけたい」と無事を喜びました。
バス救出ドキュメント時系列↓
20日
15:45 舞鶴市が災害対策本部を設置。
21:04 舞鶴市消防本部に通報。
「バスに水が入り、肩までつかっている」
「一帯でトラックが立ち往生している」
21:25 市が海上自衛隊舞鶴地方総監部に救助要請。
23:30 海自隊のトラックが現場近くに到着。
ゴムボートで救出に向かうが、川の流れが速く断念。
21日
0:30 「バスの乗客37人は全員屋根の上に避難、
ひざ上まで水が達している」(バス乗客からの携帯電話)
0:40 海自隊員が屋根の上の乗客を確認。
1:10 「水が腰のあたりまできている」(乗客からの携帯電話)
1:40 乗客の携帯電話が不通になっていく。
6:10頃 第八管区海上保安本部、海自隊のヘリが現場に到達。
日の出とともに救出に着手。
8:48 バス乗客乗員37人の救出完了。
トラックや民家からも28人を救助(舞鶴市災害対策本部)
10:00 バス乗客23人を含む32人を4病院へ搬送。
北陸観光バスに乗り合わせ、歌を歌うことを提案したり乗客の体調管理をしていた元看護師の中島明子さん(75)は、当時の記憶を絵や著書「バス水没事故 幸せをくれた10時間」に残しています。
また、白木惠委子さんという方は『バスの屋根の上で』という創作童話は北陸観光バス水没事件がモチーフになっています。
北陸観光バス水没事件は奇跡か?不運か?
北陸観光バス水没事件では乗客の中に元看護士がいて、適切なアドバイスをできたことが全員生還に大きく貢献したのは間違いありません。
他にも、由良川の上流にある大野ダム事務所が、ギリギリまで放流を止めていたことも、彼らの命をつなぎとめていたことが救助後にわかります。
ダムの水位が上がり、これ以上流入水量が増えればダムから水があふれるサーチャージ水位を超えてしまいそうな場合には放流量を調整する、つまり放水量を増やすのが一般的なダムのルール
しかし大野ダムはこの時、北陸観光バスなど立ち往生している人たちの救出を待ち、あふれるまであと2mという危険水位直前まで放流量を抑えていたそうです。
もしダム関係者が下流で立ち往生している彼らの存在に気づかなかったり、ダムから水があふれていたら、事件はまた別の結末を迎えていたかもしれません。
逆に、北陸観光バス水没事件は役所の連絡ミス、ファックスの放置が原因という見方も利ます。
37人を乗せた北陸観光バスが走る国道175号など、中丹東土木事務所が国道を通行止めにしたのは、警報発令から約5時間後の午後10時40分。北陸観光バスはすでに冠水した道路で立ち往生している時間です。
国土交通省福知山河川国道事務所と舞鶴海洋気象台が、由良川下流の警報発令は20日午後5時40分。
土木事所河川砂防室や舞鶴市消防本部などに ファクスで一斉送信された。
しかし、警報ファクスは多くのファックスの中に紛れて積み上げられたままになった。
警報ファックスが流れていたタイミングは、そのファクス近くで様々な警報ブザーが鳴っていたようで、受信確認できなったのではないか?とされています。
さらに、中丹東土木事務所に約70人の職員がいたが、土砂崩れ現場などへの出動で事務所内は10人以下になっていてキャパシティオーバーをしていたようです。
これにより、通行禁止などの対応が遅れ、冠水を知らされないままバスが通行してしまったことが、北陸観光バス水没事件が起きる一つの要因となったようです。