日本史で
兵糧米(1185年の文治の地頭設置)
加徴米(承久の乱後の新補地頭)
の違いは何?
■兵粮米
戦時における軍兵の食糧。古代の軍兵は食糧自弁が原則だったが、源平の争乱以降、その調達を名分とする賦課が行われるようになる。1180年(治承4)平清盛が源氏の蜂起に際し諸国に賦課したのが始まり。1185年(文治元)源頼朝は、諸国の荘園・国衙領に対して一律に反別5升の兵粮米を賦課する権利を得たが、翌年停止され、以後は臨時の賦課にとどまった。室町幕府は半済などにより兵粮米所を設定し、恒常的徴収を制度化した。
1185年(文治1年)に源頼朝が守護・地頭設置の勅許を受け(文治勅許)、荘園・国衙領の田1段あたり兵粮米5升を徴収する権利を得ます。これは頼朝が源義経・行家追討を名目として、つまり戦時立法として、後白河法皇から徴収権と徴収率の公定と現地調達を認められたものです。しかし、国司・荘園領主たちの反発が強く、翌年には撤回されます。ここに戦時の時限立法という性格がよくあらわれています。頼朝は、自身の政治権力の基盤の一半を、この戦時時限立法の恒常化によって果たそうとします。
■加徴米
公領・荘園で正規の正税・年貢に加えて徴収された米。平安中期ころより一般化し、付加率は不定だったが、鎌倉幕府の新補地頭設置により段(反)別5升と定量化された。
1221年(承久3年)の承久の乱の戦後処理で、幕府が没収した承久没官領、つまり後鳥羽上皇一派の貴族・武士の没収所領は3000ヶ所あまりで、ここには従来の本補地頭との両様兼帯が禁止された全く新しい新補地頭が任命されます。新補地頭の搾取率は主に旧来の慣例に従いますが、慣例がない場合または慣例に不服な者は、1223年(貞応2年)に定められた新補率法(「貞応二年御沙汰」)が適用されます。新補率法は11町毎に1町の免田(給田すなわち領主への課役納入を免除された田畑で、年貢は地頭の収入となる)の支給や「反別五升の加徴米」の徴収権を認め、加えて山川からの収入は半分が地頭のものとなる、という内容です。
新補地頭は新補率法によって「反別五升の加徴米」とあり、本補地頭は「反別五升の兵粮米」とありますが、反別五升の加徴米も反別五升の兵粮米も集める名目が違うだけで5升という量は同じです。
加徴米は承久の乱後新補地頭で兵粮米は1185年の文治の地頭設置によるもので、兵粮米は、戦時に兵士の食糧・軍事費として農民から徴収した米、加徴米は地頭の収益分の米ということになるでしょうか。