よしながふみ版「大奥」で徳川家慶が家定と関係を持つ描写がありましたが史実?
史実の家慶に多少なりとも元ネタ的な要素はあったんでしょうか?
徳川家慶と家定の関係は史実?元ネタは?大奥(よしながふみ)
徳川家慶と家定の関係について、先ずは「大奥」という作品に描かれている関係は、史実ではなくフィクションです。大奥は、歴史上の事実や人物を基にしつつも、作者の創造によって書かれています。この作品に登場する人物や出来事は、一部を除いて、厳格な法度の下で秘密にされていたため、詳細は歴史的事実としては公開されていません。
家慶は多くの側室を持ち、二十数名の子供をもうけましたが、成人したのは家定ただ一人でした。家定は早世した正室の実家の公家の姫を初め、成人した養女たちを迎え入れるなど、家慶のもとで育てられました。
作品では、家慶が家定を溺愛し、次期将軍に指名したという描写がありますが、史実では家定の病弱を心配し、家定を将軍候補から外そうと考えたことがあります。しかし、家定の将軍世子の座は不変でした。家慶は一橋家の養子として水戸家の七郎麿(慶喜)を推す動きもありましたが、結局、家定の地位は変わらずに保たれました。
また、作品では家慶と阿部正弘の関係が険悪に描かれていますが、史実では阿部正弘が出世した経緯や家慶との関係は、作品とは異なるものでした。阿部正弘は寺社奉行から老中へと出世し、最終的には老中首座に至るまで昇進しました。その際、阿部正弘は若くして首座となり、その記録は当時の江戸幕府の中でも特筆される出来事でした。
家慶の息子や娘たちの幼少期での亡くなりについては、当時の風習が関係していたことが考えられます。将軍の子供たちに与えられる乳母は、赤子に失礼にならないよう乳房に白粉を塗ることがあり、この白粉に含まれる鉛が原因で鉛中毒になる事例がありました。ただし、家慶の娘と関連した鉛中毒の話は史実としては確認されていません。家慶と家定の関係についての多くの記録が現存しているわけではないため、詳細な部分については謎が多いのが実情です。
史実での徳川家慶と家定の関係
徳川家慶と家定は、父と息子の関係です。家慶は第12代将軍、家定は第13代将軍です。
家慶は、側室であるお美津の方との間に、家定をもうけました。家定は、幼少の頃から病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたと言います。また、一説では脳性麻痺を持っていたとも。
家慶は、家定が生まれてからすぐに将軍職を継ぎましたが、父である家斉が大御所として実権を握っていたため、思うように動けず、父が没するとようやく改革を打ち出します。
しかし、家慶は1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去、家定がわずか18歳で第13代将軍に就任します。家定は、病弱で政治に関心が薄く、その上、乳母の歌橋に心を開き、歌橋が実権を握りました。
そのため、家定の将軍時代は、幕府の体制が崩壊していく中で、政治が混乱する時代となりました。家定は、嘉永11年(1858年)に35歳で病没し、14代将軍には、家定の従弟にあたる徳川家茂が就任します。
まとめ:大奥(よしながふみ)の徳川家慶と家定の関係
よしながふみ版「大奥」で描かれている徳川家慶と家定の関係は、フィクションとノンフィクションの両面があります。
まず、家慶と家定が父子であるという点は、歴史的事実です。
また、家慶が病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたという点も、歴史的資料から推測される事実です。
一方で、家慶が家定を疎んでいたという点や、家定が歌橋に恋愛感情を抱いていたという点は、フィクションの要素と言えるでしょう。
よしながふみは、歴史的事実を基にしながら、独自の解釈や想像を加えて物語を紡いでいます。そのため、よしながふみ版「大奥」で描かれている徳川家慶と家定の関係は、歴史的事実に基づきながらも、フィクション的な要素も含まれていると言えます。
具体的には、よしながふみ版「大奥」では、以下のような描写があります。
- 家慶が家定を疎む理由として、家定の病弱や内向的な性格が挙げられている。
- 家定が歌橋に恋愛感情を抱いており、歌橋も家定に好意を寄せている。
これらの描写は、歴史的資料からは裏付けられていないものですが、よしながふみが独自の解釈や想像を加えて描いたものです。