今川義元の子孫・末裔の現在は?

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今川義元の子孫は?

今川義元の末裔の方は現在、何をしているのでしょうか?

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今川義元の子孫・末裔の現在は?

今川義元の子孫・末裔について義元のひ孫の直房までで直系は絶えます。

今川家は、養子を繰り返したりしながら明治時代に23代範叙で断絶しています。

今川義元の嫡子・今川氏真の系統が徳川幕府の奥高家として存続し今川氏真の遺跡は、子・範以(のりもち)が38歳で没したため、孫の直房が継いでいます。

1636年12月、従五位下侍従に叙任され、幕府の奥高家となり、五百石を加増されて千石となります。この系統の最後の当主である今川範叙(のりのぶ)が1887年11月3日に没し、範叙の子・淑人が早世しているため、鎌倉以来の今川家の嫡家は絶えています。

今川義元は織田信長に敗れて今川義元流の今川家は断絶しかかりましたが、徳川家康の庇護の元で子供の今川氏真が細々と家を継ぎました

範叙には淑人の他に娘が2人おり、一人は1862年に没していますが、もう一人の娘・せんは篠富孝の後妻になっています

どこかに血を受け継ぐ人がそれと知らずに生きているとは思われます。

傍系なら残っていると思われますが、今川氏は名乗っていないでしょう。

また今川氏真には高久という次男もおり、この系統は品川氏(今川の姓は嫡家しか名乗れないため)として存続していますが、現在にまで子孫が伝わっているかどうかは不明です。

まとめ:今川義元の子孫・末裔の現在は?

傍系や女系の子孫はやまほどいるでしょうから、現代においても今川義元の血をひく子孫は、たぶん数えることなど不可能なほど相当な人数がいるはずです。

でもいくら今川義元の血をひいているといっても、それは「血脈」であって「家系」ではありません。家系図とは「家」を継ぐ者が掲載されている系図のことであって、「今川家」の系図ではありません。

ちなみに今川家は足利一門なので、細川など他の足利一門とも血縁はあります。もっとさかのぼるなら足利家は清和源氏なので、清和源氏系の武家はすべて血縁がある事になります。当然先祖は清和天皇なので、今上陛下も遠い親戚です。

参考:家系図|今川義元の子孫・末裔の現在は?

■家紋
足利一門の中で別格な存在だった今川氏の紋は二引両と桐を使用したが、どちらが定紋かは定かではない。桐紋は室町幕府で小判などの貨幣に刻印されてから、幕府や豊臣政権など様々な政府が用いるようになった。

今川氏は足利将軍家の庶流にあたる名門の氏族であり、その祖は鎌倉時代の今川国氏(くにうじ、1243-82年)までさかのぼる。

国氏は父・長氏から三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)の今川の地をあたえられ、今川の姓を称した。
そして、国氏の孫にあたる今川範国( のりくに、1295?-1384年)が室町幕府の成立に貢献した結果、遠江と駿河の守護となり、ここに今川氏の初代当主が誕生したのである。

今川氏は初代範国以降6代にわたるまで一貫して駿河守護を努め、遠江・駿河・三河の各地に勢力を拡大していった。初代から3代までは遠江守護でもあり、室町幕府下において足利宗家に寄り添い、政治・軍事的役割を果たした。
また、中央や公家とも多く交わり、文芸活動も行ない、室町幕府の永続のために活動していったのである。

ちなみに今川義元は9代目当主にあたる。

■義元の兄弟
同母兄に氏輝と彦五郎がおり、生母不明の兄弟姉妹もいる。

今川氏輝(同母兄、うじてる)
義元の長兄で今川家第8代当主。家督相続時はまだ14歳で病弱でもあったことから、母・寿桂尼が実権を握っていたが若くして弟の彦五郎と同日に突然死した。死因は謎で毒殺説・自殺説などの諸説がある。
彦五郎(同母兄、ひこごろう)
長兄の氏輝と同日に謎の死を遂げた。
玄広恵探(兄、げんこうえたん)
母は今川家臣の福島正成の娘と伝わる。今川家の家督争い・花倉の乱(1536年)で敗れて自害した。
泉奘(弟、せんじょう)
幼少時から僧侶となり、のちに泉涌寺・唐招提寺の長老となる。また、筒井氏の菩提寺・伝香寺の中興開山にもなった。義元の次男とする説もある。
氏豊(弟、うじとよ)
生母不明。今川家の家督争い・花倉の乱にも関わりがなく、一説に氏親の子ではなくて傍流という。
瑞渓院(同母妹、ずいけいいん)
北条氏康の正室となった。
女子(妹)
生母不明。竹谷松平家当主の松平親善に嫁ぎ、のちに今川家臣・鵜殿長持の正室となった。
女子(妹)
生母不明。中御門宣綱に嫁いだ。
女子(妹)
生母不明。今川家臣・関口親永の正室となった。

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