諱(いみな)と字(あざな)の違いは?
昔の人は諱(いみな)と字(あざな)を持っていましたがどんな違いがあったんでしょうか?」
また誰がどんなどんな名前(諱(いみな)/字(あざな))だったんでしょうか?
諱(いみな)と字(あざな)の違いは?
「字(あざな)」とはその人個人の通称です。
「伊達藤次郎政宗」などで言えば次郎三郎、藤次郎がこれにあたります。
普通は諱(いみな)ではなく字(あざな)を呼びます。
坂本「竜馬」や桂「小五郎」、山中「鹿之助」塙「団右衛門」という感じで、こちらが有名な人もいます。「藤吉郎」秀吉もそうですね。
諱(いみな)は「忌み名」という意味です。
死後に尊んでつけた称号のことで、諡(おくりな)とも言います。
特に日本で諱というときには、人の死後に呼ぶ本名または、貴人の実名のことを言うことが多いようです。
つまり日常生活をしていて、互いに会話する時に「何々さん」と、呼んではいけない名前です。実名または名乗りとも言います。
諱(いみな)はこれを知られると呪い殺されるという古代中国からの風習ですから相当目上かかなり仲が良くなければ呼ぶ事はありません目下の者がそれを呼んだら殺されても文句は言えません。
信長が光秀に家康を紹介するときでも字(あざな)の「竹千代」と幼名で紹介するぐらいです、第三者として本人がいない時に使うなどもっての外でもしそれが本人に知れたら大変な事になります。
■諱(いみな)の使われ方
① 死後にいう生前の実名。 三蔵法師→玄奘 など
② 後に、貴人の実名を敬っていう。
③ 死後につけた称号 藤原不比等→淡海公 藤原忠平→貞信公 など
この③は諡と同様のものです。「のちのいみな」ともいいます。
古来日本では名前には生命力が宿り、それを使い続けると徐々に生命力が衰えるため、普段は使わない諱をつけることにより、生命力の衰えを防ぐという考え方がありました。
ちなみに、一族で世襲した諱の漢字一字を通字といい、家ごとに決まっていました。
天皇家ー[仁(男)・子(女)]
源氏ー[義]、平氏ー[盛]
徳川家ー[家・康]、織田家ー[信]など
また偉い人から一字もらうことを偏諱(へんき)といいます。
足利義輝→伊達輝宗
今川義元→松平元康
徳川家康・豊臣秀吉→結城秀康など
まとめ:諱(いみな)と字(あざな)の違いは?
昔の人にとって「政宗」とか「家康」などの諱(いみな)というのは、大変大事なものでした
たとえ敬称をつけてもみだりに呼んではいけないものでした。 諱(いみな)を呼ぶのは相手の耳たぶをつかんで引き回したり、相手のおちんちんを握ったり、「カンチョー」するのと同じくらい乱暴で失礼なことでした。天下人にそんなことしたら首が飛びますよね。 明治大帝ですら臣下をイミナで呼ぶような乱暴なことはなさらなかったそうです。 大河ドラマで「家康殿」とか「秀吉様」とかいうのは現代の視聴者にわかりやすくしているのであって、当時そんなことはゆるされませんでした。 イミナを呼べないので、官位のある人に対しては「関白様」とか、「内府様」とか、「筑前守殿」などと呼びます。官位のない人には「羽柴殿」「徳川殿」と、姓でよびます。また目下や親しい人は「小次郎どの」とか「又三郎さま」などといった通称で呼びます。 また、子供は「竹千代」といった幼名で呼びます。 また、女性を名でよぶのも現代で言えば相手の下着に手を触れるぐらいの失礼でした。
通常は「上の姫様」とか「中の姫様」などと呼びます。
女性が男性に自分の名を教えるということは、「こよい一夜、あなたの妻になりたい」ということを意味しました。
女性の名前が秘密だったために紫式部や清少納言の本名はわからなくなってしまいました。
昔の人は諱(いみな)と字(あざな)には次のようなものがあります。
黒田官兵衛(字)孝高(諱)
織田信長は、織田三郎(字)信長(諱)
名奉行『大岡越前』として有名な大岡忠相は、
大岡越前守(字、厳密には受領名)忠相(諱)
新撰組の皆さんだと
近藤勇(字)昌宜(諱)
土方歳三(字)義豊(諱)
沖田総司(字)春政(諱)
志士側だと、
坂本龍馬(字)直柔(諱)
西郷吉之介(字)隆盛(諱)
など
字に見られる特徴は、太郎次郎が多いです。
徳川家康は若い頃は『松平次郎三郎家康』と名乗っています。
また、受領名を字にする場合は国名が入っている場合があります。
豊臣秀吉が昔使った『羽柴筑前』などです。水戸黄門の『黄門』も受領名をアレンジしたものです。
受領名には国名以外もあり、『弾正』『織部』『主税』などがあります。
諱は感じ二文字が大多数で先祖から引き継いだり、主人から貰う場合が多いです。
武田家や織田家は『信』、伊達政宗の伊達家は『宗』を代々使っています。