伊藤孝光は朝ドラ「らんまん」に出てくる登場人物の一人。
万太郎(神木隆之介)とは第70話で初めて顔を合わせますが、伊藤孝光のモデルは誰?
伊藤孝光のモデルは実在するんでしょうか?伊藤篤太郎(シーボルトの孫)?
らんまん伊藤孝光のモデルは誰?伊藤篤太郎(シーボルトの孫)
朝ドラ「らんまん」第70話では田邊教授(要潤)に頼らず新種の名付け親になる方法について相談しようと、万太郎(神木隆之介)は佑一郎(落合モトキ)の助言通り、博物館へ向かいます。
すると、里中先生(いとうせいこう)から紹介されたのがたまたま居合わせた植物学者・伊藤孝光(落合モトキ)でした。
伊藤孝光はシーボルトの助手を務めた伊藤圭介の孫ということで、伊藤圭介は実在する人物です。
さらに伊藤圭介の孫には確かに植物学者となった人物がいて、名前は
伊藤篤太郎
です。
伊藤篤太郎の祖父・伊藤圭介は江戸時代から明治初めにかけて日本を代表する植物学者
父親から漢方医学を学んだ名古屋出身の医師でしたが、1826年にシーボルトが長崎から江戸へ行く途中に名古屋の宿に寄った際に知り合ったとされます。
伊藤圭介は医学の勉強を通じてオランダ語が話せたことから、シーボルトとの交流を深めると、シーボルトに助手として長崎でともに研究を行うようになります。
その後は、植物学者として、文部省の教授や東京大学理学部客員教授などを歴任。
伊藤篤太郎(らんまん伊藤孝光のモデルでシーボルトの孫)
伊藤篤太郎は1866年1月15日(慶応元年11月29日)に尾張国に生まれた植物学者。
父親は本草学者 伊藤圭介の弟子で、圭介の女婿となった伊藤(中野)延吉である。
1872年に東京に出て、祖父圭介のもとで植物学を学び、1884年からイギリスのケンブリッジ大学などに私費留学をした。
圭介に目をかけられており、跡継ぎとして圭介から直接教育を受けていたそうです。
1887年に帰国後、東京府尋常中学校や愛知県尋常中学校、1894年からは鹿児島高等中学造士館で教職についた。
鹿児島時代は、沖縄諸島の植物の収集を行い、後に、松村任三と『琉球植物説』(1899)を発表した。
1888年にトガクシソウの学名に関わる「破門草事件」が起きている。1896年に造士館が閉鎖になると、愛知県立第一中学校で教職についた。
1897年から1898年には祖父圭介を顕彰する「錦?翁九十賀寿博物会誌」や「理学博士伊藤圭介翁小伝」の編集、執筆を行った。
1921年に東北帝国大学に生物学科が新設されるとその講師となった。著書に「大日本植物図彙」などがある。
牧野富太郎と伊藤篤太郎(らんまん伊藤孝光のモデル)の関係は?
牧野富太郎の自叙伝から、伊藤圭介の孫・伊藤篤太郎と交流があったことが分かっています。
伊藤篤太郎は留学後、牧野富太郎とともに研究をしていた時期があったようです。。
牧野富太郎とは明治 14 年に初めて出会い、牧野富太郎が腐生植物「ヒナノシャクジョウ」を日本で初めて採集し和名をつけると、伊藤篤太郎は沖縄で採集された「ルリシャクジョウ」の標本を詳しく調べていました。
のちに牧野富太郎が新種であると発表し、篤太郎に因んだ学名をつけています。
世に言われている破門草事件などはあったが、ともに研究を深めた植物学者として敬意を払い学名に相手をたたえた名称を付けるなど、交流を深めていたそうdせう。
また、伊藤篤太郎の祖父・伊藤圭介の日記から、牧野富太郎が初めて上京した時に、東京大学理学部客員教授をしていた伊藤圭介の元を訪ねたことが明らかとなっています。
牧野富太郎は、伊藤篤太郎の祖父・伊藤圭介のことを
「本草学の大家として、大海の中に毅然として立った島」
伊藤圭介が亡くなったあとには
「伊藤圭介の遺品は植物学において貴重なものであるため、未完のものでも出版した方がよい」
と、郷土史家吉川芳秋への手紙で記されています。
落合モトキ(伊藤孝光の俳優)プロフィール
本名:落合モトキ
生年月日 1990年7月11日
年齢:33歳
出身地:東京都
身長:177cm
出身高校:日出高校(目黒日本大学中学校・高等学校)
所属事務所:有限会社イトーカンパニー
4歳の頃にスカウトされ、1996年からファイブ☆エイトに所属し子役として芸能界デビュー
やっぱりさんま大先生』レギュラー出演ほか、数多くのテレビドラマ・映画に出演した。
同級生にはKis-My-Ft2の千賀健永、本郷奏多など。