自衛隊機乗り逃げ事件とは、1973(昭和48)年に栃木県宇都宮市にある陸上自衛隊北宇都宮駐屯地(宇都宮飛行場)から格納庫内に収容されていたLM-1連絡機1機の行方が分からない事件。
飲酒した陸上自衛官で整備士のK三等陸曹(当時20歳)が航空機に乗って飛び去り、機と一緒に行方不明になったままとなています
自衛隊機乗り逃げ事件とは?
事件発生当日の1973年(昭和48年)6月23日午後9時前、栃木県宇都宮市にある陸上自衛隊北宇都宮駐屯地(宇都宮飛行場:RJTU)の滑走路から富士 LM-1連絡機1機が飛び立った。
夜間訓練でも緊急発進でもない無断飛行で、既に管制塔が閉鎖されていたこともあり分校は騒然となった。
隊内の調査で、同駐屯地の航空学校宇都宮分校(現宇都宮校)に整備員として所属していた3等陸曹の菅野行夫(当時20歳)が隊内のクラブでビールを飲んていたことが判明。
飲酒の上、行方不明となっていたことあkら、どうやら彼が格納庫から航空機を発進させたらしい。
陸上自衛隊では過去に火災により航空機を亡失したことがあり、格納庫は緊急事態に備えるため、いざという時に航空機を他の場所に移せるよう、格納庫には外からかんぬきをかけるのみで、施錠は行っていなかった
それが完全に裏目に出た格好となり、当該機は南方に向かって飛び立ったのが目撃されているが、レーダーでは捕捉されなかったため、かなりの低空飛行だったと推測されている。
LM-1は富士重工業が生産した連絡機で、愛称は「はるかぜ」。
Lは「連絡」
Mは「ベース」
乗員1名/乗客3~4名
航続距離:1556㎞
全長:7.88m
最大速度 174ノット(約322km/h)
元はアメリカの開発した「T-34A」という練習機を改良したものを導入する予定だったがとん挫し、防衛庁発足の1954年にれまでライセンス生産していたアメリカ製のT-34「メンター」初等練習機をベースに富士重工業が多座席連絡機の製造を依頼されて急遽作成したのが試作機LM。
パイロット1名のほかに最大4名乗ることが可能で、天井部分に大型ハッチがあるため、軽輸送機としても使用可能な汎用性を持っている機体でした
自衛隊機乗り逃げ事件で飛行機・パイロットの行方・消息は?
菅野三曹が持ち出したLM1には1,300km分、およそ5時間20分飛行できる燃料が積まれていたが、菅野三曹は整備士として副操縦席に搭乗経験があったのみで操縦訓練は受けておらず、搭乗経験自体もLM-1では2時間10分しかなかった。また、無線の使い方がわからなかったのか、意図的に応じなかったのかは定かではないが、呼びかけにも応答しなかった。
直ちに捜索が開始されたが、宇都宮分校及び航空自衛隊北部・中部航空警戒管制団のレーダーで同機の姿を捕捉することはできなかった。
事件後も自衛隊、警察、海上保安庁は、機が栃木県から南~南東方向に向かっていったという推定の下、1ヶ月間にわたる捜索でも(現在に至るまで)機体・3曹共に発見できなかった。
LM-1に搭載された5時間20分相当(航続距離約1,300km)の燃料が尽きたため、墜落したと推定されているが同機の破片一つ見つからずじまいであった。
共犯の存在も疑われ調査が行われたが、その存在を裏付ける証拠は見つからず、防衛庁と陸上自衛隊は、3曹が酔った勢いで突如航空機を操縦してみたいという衝動に駆られ、乗り逃げしたものと断定した。
事件を起こした3曹は、同年8月1日付けで行方不明のまま懲戒免職とされた。関係者7人も航空機の管理責任を問われる形で処分されている。
考察:自衛隊機乗り逃げ事件とは?飛行機・パイロットの行方・消息は?
自衛隊機乗り逃げ事件では、「酔ったうえでの突発的な犯行ではない」と元同僚で現職予備自衛官の小栗新之助氏が著書「自衛隊青春日記」(共栄書房)に記しています。
「何トンもある格納庫の扉の開閉や航空機の出し入れは1人で簡単にできるものではなく、準備しなければ不可能に近い。事件が起きたのは敷地内に人が少なくなる土曜日でした。また、事件前に3等陸曹は操縦士になるための試験を同期と3人で受験して1人だけ落ちていました。その影響もあったと思います」
小栗氏はこの3等陸曹と一緒に成人式にも出席した仲。事件の少し前には不審な様子も目撃したという。「駐屯地内の道の隅で見かけない革ジャンの男2人とひっそりと話し込んでいるのを見たんです。あれは何だったのか今でも気になっています」