高校の現代文では見田宗介さんの「『自明性の罠』からの解放」が採用されている教科書が多いですね。
「自明性の罠からの解放」で現代社会の「自明性」の檻の外部に出てみる ことにはどのような意義があるのか?といった問題がテストで出題されています。
自明性の罠からの解放のテスト問題・例題解説は?
「自明性の罠からの解放」で良く出される問題の一つが、
「現代社会の「自明性」の檻の外部に出てみる ことにはどのような意義があるのか」といったもの。
答えの例を一つ上げると、現代社会において「当たり前」だとされていることを相対化し、驚きに満ちたものとして見つめ直すということ。
「自明」というのは必ずしも正しいことが保証されるものではなく誤りであることも多い。その意味では「常識」に似ています。
視点を変えてそこから「本当にこれは正しいのか」と疑ってみると、実は定説とは言えなかったり、日本古来の習慣と思ってたら歴史が極めて浅かったり、世界ではむしろ少数派だったり。
そうやってその物事の相対化を試みることは社会や文化のより深い理解につながるものです。
他にも、「方法としての異世界を知る」とはどういうことか?といった問題も良くみられます。
こちらは異世界を知ることによって、自明性を疑う土壌ができるといった解答になるでしょう。
また、「両方を見る」とは何と何を指してるいるのか?という問題については「前近代と近代」というのが解答になります。
学習塾KOMABAシンガポール
https://www.cradle.asia/wp-content/uploads/h3_japanese_0707.pdf
自明性の罠からの解放で「旅と旅行の違い」は?
旅=スケジュールどおりに進まない、行き当たりばったり
旅行=予定、スケジュール通りにことが進む
自明性の罠からの解放の記述問題の例
本文の内容を踏まえて、あなたの今後の生活の中で、「想像力の翼を獲得する」とは具体的にどのようなことでしょうか?また、どのように行動するのか例を挙げつつ記述してください。
「あたりまえのもの」を、<あたりまえではないもの>として見ていくこと。
社会学者の見田宗介は、この方法論を、社会学のキーワードとして、<自明性の罠からの解放>という言葉で表現している。
自分自身を知ろうとするとき人間は鏡の前に立ちます。
全体としておかしくないか、見ようとするときは、相当に離れたところに立ってみないと、全体は見ることができない。
自分の生きている社会を見るときも同じです。
いったんは離れた世界に立ってみる。
外に出てみる。
遠くに出てみる。
そのことによって、ぼくたちは空気のように自明(「あたりまえ」)だと思ってきたさまざまなことが、<あたりまえではないもの>として、見えてくる。
社会学における「比較」という方法を語りながらも、見田宗介は「社会学」という学問に閉じ込めるのではなく、ぼくたちの「生き方の方法論の一つ」とする視野で語っている。
ブログのタイトルに付す「世界で生ききる」ということの内実の一つとして、この方法論を、ぼくは明確に意識している。
アジア各地への旅を通じて、ニュージーランドでの生活を通じて、シエラレオネと東ティモールでの支援活動を通じて、それからここ香港での仕事と生活を通じて、ぼくは「あたりまえのもの」だと思ってきたこと・してきたことを、<あたりまえではないもの>として、いわば鏡の前に立ち「鏡の中のじぶん」を見つめ、見直してきたわけである。
最近思うのは、「あたりまえのもの」だと思っていることや「身」についてしまっていることは、幾層にも重なっていることである。
そしてまた、それらはいろいろなものやことに広がっている。
日本的な考え方や動作であったり、家族的な癖や習慣であったり、さまざまだ。
気づいて見直して、変えたと思っていたら、また別の層や別のところで、その「あたりまえ」がふとした機会に現れる。
そんなことを繰り返しながら、<自明性の罠からの解放>を、引き続き現在進行形で生きている。
見田宗介のより強い関心は、「近代と前近代」との比較にあり、そのことを踏まえた上で、次のように語っている。
…異世界を理想化することではなく、<両方を見る>ということ、方法としての異世界を知ることによって、現代社会の<自明性の檻>の外部に出てみるということです。さまざまな社会を知る、ということは、さまざまな生き方を知るということであり、「自分にできることはこれだけ」と決めてしまう前に、人間の可能性を知る、ということ、人間の作る社会の可能性について、想像力の翼を獲得する、ということです。
現代社会における各社会間の比較よりもいっそう深い「異なり」を示す「前近代と近代」を比較することで、いっそう高く飛ぶための<想像力の翼を獲得する>ことが、見田宗介の仕事にかけられてきた。
共同体と市民社会とコミューン、お金、時間、自我・身体といった、根底的な見直しである。
そして、この視野と視点が、「近代(また現代)」の後にくる次なる時代を構想し、向かうために、決定的に大切である。