NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」足利は出ない?
鎌倉殿の13の時代、室町幕府の初代将軍足利尊氏の先祖はどうしていたんでしょうか?
鎌倉殿の13人に登場する政子の妹はのちに足利家に嫁いだ北条時子でしょうか?
鎌倉殿の13人 足利は出ない?
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代、足利氏初代の義兼は頼朝蜂起の年(1180)の冬までに頼朝の元に加わり、元暦元年(1184)に西国に出撃した源範頼軍に参軍して北九州まで遠征しています。
この功績もあり、内乱終結後の文治元年(1185)には源氏6人の一人として上総介に任官します。鎌倉幕府内の家格は門葉(諸大夫・侍)・家子・御家人(侍)の最上位である諸大夫門葉に列せられています。
義兼の嫡男義氏は養和元年(1181)生まれで、母は北条時政の娘です。両人の結婚は養和元年2月で、同日に甲斐源氏の加々美長清と上総広常の娘の結婚も行っており、両方とも頼朝の味方となるべき河内源氏と関東御家人を結びつける政略結婚です。
初代の義康は「鎌倉殿の13人」がスタートする20年くらい前に亡くなってますし、2代目の義兼は後5年で出家して表舞台から姿を消しますし、3代目の義氏はまだ生まれたてです。登場させても活躍のさせようがないので、登場させなかったんじゃないでしょうか。
まとめ:鎌倉殿の13人 足利は出ない?
足利氏初代の足利義兼は主役の北条義時と共に、源頼朝軍に従軍して、九州に遠征しています。この軍の中で義兼は大将軍範頼に次ぐ将です。
足利義氏(北条時政娘所生)は、和田義盛の乱で北条朝時(義時次男。姫の前所生)が朝比奈義秀(義盛男)と戦い、次いで義氏が戦い、この戦いのハイライトとなっています。
承久の乱では東海道大将軍の一人として、北条泰時(義時長男)と共に上洛して合戦に活躍しています。
義兼・義牛共に義時の重要場面に絡んであおり、歴史的事実に基づいてドラマを構成するなら、登場するのが順当ですが、時代的には3代目の義氏はまだ生まれたてです。
登場させても活躍のさせようがないので、登場させないのではないでしょうか。
宮澤エマさん演じる実衣は、阿野全成(頼朝弟)の妻になる阿波局です。
一方、北条時子は足利義兼の妻で阿波局よりおそらく下の妹で、時政が再婚を発表したときに後ろに並んでいた子供の一人と考えるのが妥当です。
大河ドラマでは史実上の兄弟姉妹が沢山いても、人間関係を簡略化するために一部を登場させないというのがよくあります。
鎌倉幕府初代源頼朝期には、将軍補翼として門葉源氏という格を設けて、門葉源氏の中で従五位下の位階を持つ者を御家人の上に置きました。当初の門葉源氏の序列は、武蔵守平賀義信(義光流信濃源氏)、遠江守安田義定(義光流甲斐源氏)、三河守源範頼(異母弟)、信濃守加賀美遠光(義光流甲斐源氏)、駿河守源広綱(頼光流摂津源氏)、上総介足利義兼(義国流下野源氏)、伊豆守新田義範(義国流上野源氏)等です。義定・範頼・広綱は失脚して、子孫は歴史の表舞台から消えます。義範の子孫は後退して普通の御家人となります。遠道の子孫は小笠原氏として守護級の有力御家人として残ります。平賀氏(大内氏)は3代将軍実朝期までは受領級源氏のトップにいましたが、承久の乱で後鳥羽上皇方となり、失脚します。足利氏は義兼が北条氏の婿となり、以後北条氏との縁戚を重ねて、幕府滅亡まで受領級の源氏として残りました。
「六条八幡宮造営注文」という史料があります。これは同宮造営の負担をしました者です。この建治元年(1275)分には最大負担者得宗北条時宗500貫を筆頭に、源氏では足利氏200貫、武田氏100貫、小笠原氏100貫、平賀氏20貫が「鎌倉中」という御家人では各上の鎌倉在住者に入っています。
以上から、承久の乱後には足利氏が源氏中のトップの位置を占めていたことになります。