克美しげるは昭和史の残る名曲を送り出したアーティストの一人ではあるものの、その晩年は決して恵まれていたとは言えない生涯だったのかもしれません。
克美しげるの現在のwikiプロフ
名前:克美しげる(かつみしげる)
本名:津村誠也(つむらせいや)
生年月日:1937年12月25日
享年:2013年2月27日(75歳)
職業:元歌手、カラオケ店経営
出身:宮崎県宮崎市
学歴:宮崎県立宮崎大宮高等学校
克美しげるは高校卒業後、神戸でバンドボーイをするようになると1960年にNHK大阪が主催したオーディションに合格。
1961年に芸名を「克美しげる」に改め同じく改名したバンド “ロック・メッセンジャーズ”と共に東京に進出すると、
ジャズ喫茶でのステージにて東芝レコードのディレクターからスカウトを受けます。
1961年に東芝EMI専属で歌手デビューを果たすと、デビュー曲「霧の中のジョニー」が40万枚の大ヒットを記録。
その後も1963年のテレビアニメ「エイトマン」の主題歌や、60万枚のヒットとなった「さすらい」など数々の名曲もあり、
1964年、1965年と2年連続でNHK紅白歌合戦に出場するほどの人気を獲得するようになります。
ところが、克美しげる銀座NO.1ホステスを殺害するという事件を起こしてしまい10年ほど服役をすることになります。
仮釈放後は身元引受人の助けを得て音楽事務所やカラオケ教室を開くと、
多くの女性ファンが彼のカラオケ教室に詰めかけたのだ。再び富を築きます。
事件から7年後の1983年10月に再婚もして記者会見を開き、被害者の父親に対し公開謝罪を行うと同時に賠償金の1000万円を一括で支払うといったパフォーマンスから、
一時は芸能界から遠ざかっていた克美しげるに再び世間の目が集まるようになります。
そんな克美しげるですが、1989年5月11日に音楽教室に置いてあった克美のセカンドバッグから覚醒剤約2.2グラムと注射器1本が押収され、
覚せい剤取締法違反(不法所持)で逮捕され、懲役8ヵ月の実刑判決を受けます。
1996年には31歳年下の女性と4度目の結婚を果たすも、健康を崩すており心臓病や脳梗塞、顔面麻痺などの病気に相次いで襲われ、
闘病生活を余儀なくされるものの、2000年代には再びテレビ番組にも出演するようになります。
しかし、2013年2月27日に脳出血により亡くなっていたことが2013年10月2日に公表されました。
享年75歳でした。
克美しげると岡田裕子事件
克美しげるさんは妻子がいるにもかかわらず、当時の銀座の高級クラブでナンバー1ホステスだった
「マリコ」こと岡田裕子さんと出会うと、その1か月後には同棲生活をスタートさせています。
克美しげるは結婚していることを隠して交際をするものの、徐々に人気に陰りが見えるようになり仕事が激減してたことから、
音楽関係者への接待をするために借金を重ね、いつしかその金額は1000万円(現在の3000万円以上)を超えるほどに。
その窮地を救ったのが岡田裕子さんで、落ち目だった克美しげるはさんを懸命に支え毎月30万円(現在の100万円)を渡し、ほぼ借金1000万円の返済を肩代わりすることに。
味をしめた克美しげるは岡田裕子さんのお金で豪遊し、ギャンブルや賭けマージャン等で再び借金をしては
岡田裕子さんにお金を無心するという完全に愛人に寄生するヒモのような生活を送ることになります。妻子がいるにも書かwらず。
銀座NO.1の捨て酢の岡田裕子さんといえど、ホステスだけではお金が足りなくなり、風俗店で働いてまで克美しげるに貢ぎ続け、その金額は総額で3500万円(現在の1億円以上)にも上ると言われています。
精神的にも経済的にも金づるの岡田裕子さんを頼るようになった克美しげるは1975年に擬装結婚することを計画し、
岡田裕子さんの実家を訪れて両親に挨拶すると、さらに親戚や友人らを招いて結婚式まで挙げています。妻子がいるにもかかわらず。
ちょうどそのころ、人気が低迷していた克美しげるに再び脚光が集まるようになります。
克美しげるの復活企画では、新曲の作詞家に昭和歌謡界の巨人と呼ばれたヒットメーカー阿久悠が起用され、再ブレイクは約束されたも同然。
歌手としての仕事が増え、岡田裕子さんなしでも十分に暮らしていけるようになりますが、
そうなると今度は、「スターにはスキャンダルはご法度」の芸能界では岡田裕子さんの存在が邪魔になってしまいます。
芸能事務所の社長にもきつく厳命された克美しげるは、岡田裕子さんのもとを離れ妻子と暮らし始めるものの、岡田裕子さんに二重結婚していることが知られてしまいます。
ここで岡田裕子さんは激怒するとか悲嘆にくれるわけではなく克美しげるへの愛情を持ち続けます。
邪険な扱いをされてもなお諦めきれずに克美しげるの全てのコンサートに顔を出すほど熱の入れようでしたが、
克美しげるのスタッフからはストーカー呼ばわりされてしまうのでした。
そして、事件当日の1976年5月6日。
克美しげるは岡田裕子さんのもとを訪れ「これ以上、つきまとわないでくれ」と説得をするも、
これまで耐えてきた岡田裕子さんも堪忍袋の緒が切れて「マスコミに全部ばらしてやる」と責め立てた結果、克美しげるが犯行に及んだようです。
克美しげるは遺体を毛布にくるんで車のトランクに入れると埋める場所が見つからずに大田区羽田空港2丁目の羽田空港第2有料駐車場にに乗り捨てます。
船橋のバー経営の女性には「車はガードレールにぶつけて返せない」と嘘をついて、
克美しげるは新曲「おもいやり」のキャンペーンのため北海道を巡業中で、
札幌発の特急いしかりで旭川に着いたところを駅に待ち構えていた警察に任意同行させられ、逮捕されています。
克美しげるは殺人及び死体遺棄の罪で懲役10年の判決を受け、大阪刑務所で服役していましたが、
模範囚を通したため2年8カ月の刑期を残し、1983年10月28日に仮出所が認められると
身元引受人の大谷羊太郎さんに迎えられます。
大谷さんは推理作家でもあるのですが、元々は克美さんのバンド仲間であり、事務所でマネージャーもしていたという縁があったことから、
服役中の克美しげるの相談に乗っていたそうです。
克美しげるの娘は?
克美しげるは何度か結婚歴があるものの、その家族については情報が明らかにされていません。
子供についても確かな情報がなく、最初の結婚生活では「妻子がいる」といった感じで表記されている記事が目立つので子供がいたことは間違いないと思われます。
ただ、子供の性別が息子か娘なのかどうかは現時点では不明瞭といった状態です。
いずれにしても、克美しげるの残されたご家族の方にはできる限り平穏で幸せな生活を送ってもらいたいと願うばかりです。