常盤御前と言えば源義経の母ですが平清盛との関係は側室だったとされているという話しは本当なんでしょうか?
ちなみに頼朝の母は、熱田神宮大宮司藤原季範の三女の由良御前です。
平清盛と常盤御前の関係は側室?子供の廊御方は壇ノ浦で最後?
義経の母・常盤御前は近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ)。
平治物語によれば雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったといいます。
のち源義朝の妾となり、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産みました。
平清盛が頼朝を殺さなかったのは、清盛の継母である池禅尼が、頼朝が幼いころに死んだ我が子・家盛によく似ているということから助命を嘆願したためだと言われます。清盛ははじめは拒絶したが、後に池禅尼が断食をし始めたため、遂に伊豆への流罪へと減刑したと言われています。
実際は、頼朝の乳母(比企尼)の実家(比企氏)が、池禅尼の周辺の近臣に命乞いのための贈賄をしたためだとも。
平清盛は義経を殺さなかったのは、実母と三人の子供の助命を請う常盤の美貌に心を動かされたため。助命と引き換えに、常盤はこのあと、清盛に請われて妾となり一女(廊御方)を産み、後に一条長成に嫁し、一条能成を産んでいます。
頼朝や義経ら源氏の嫡流の子を助けたことが、清盛亡き後の平家滅亡の原因となりました。
常盤御前が平清盛の愛妾になったというのは、軍記物の「平治物語」「平家物語」「義経記」などにあるお話です。
何故、妾ということになったかといいますと、義経記等を参考にした尊卑文脈の作者が記載したことが根拠です。
ただある程度信頼のおける史料では源義朝と結婚し、今若、乙若、牛若の三人の子をなしたこと、源義朝が非業の死を告げた後、一条長成のもとに嫁いで一条能成と女子を産んだこと(「尊卑分脈」「系図纂要」)、義経が兄・頼朝に追われた時、義経を探索していた幕府により一時拘束された(後に釈放)された程度しか登場しません。
従って、おそらく清盛は常盤御前を愛妾にした事実はないと考えられます。清盛が今若、乙若、牛若を助命したのは清盛自信の判断であり、頼朝を助命した手前、幼い三人の男子まで命を奪う必要はないと判断したと思われます。
なお清盛と常盤御前の間に生まれたとされる「廊御方」は、壇ノ浦まで平家一門と行動を共にしたお話は、「平家物語」と「源平盛衰記」のみにある話で、『吾妻鏡』のような史料とされる文献や「義経記」には登場しません。
或る程度確実に分かって居る事は、常盤御前は一条大蔵卿長成と”再婚”した後、長成との間に一男一女を設けて居る事。
一条大蔵卿長成は、美福門院の近臣だった事が分かって居り、又加賀や但馬等平家の利権に関わりの深い国々の国司を歴任して居る事からも、一応平家とも全く縁の無い人物では無さそうです。
又一方では、藤原秀衡夫人の父・藤原基成は従兄弟に近い関係である事から、義経の奥州行には長成の関与が指摘される事があります。
常盤御前と長成の子・能成は、五歳にして従五位下と言う異例の殿上人の待遇を蒙って居る事から、能成の実父はもしかしたら平清盛だったのかもしれません。
成人した能成は異母兄義経に近づき、行を共にする事に成ります。
大物浦の嵐で離散した後、鎌倉方の捕らわれの身と成ったと見え、頼朝の奏請で官途を解かれ失脚と言う事に一旦は成りますが、二十年後には復帰、更に其の十年後には晴れて公卿入りを果たし、当時としては七十五歳の長命を保った後身罷る事と成ります。
多分、此の時代の関係者としては、誰よりも長生きを果たすことになります。